ディルタイ
一読目、読めば読むほどよく分からなくなっていく。こういう記述スタイルは苦手だ。研究者からどういう評価を受けるのかよく分からないが、初学者の私には読みにくい本だ。でも、読了して序文を読み直してみたら、これがすらすら読める。やはり、予備知識ゼロで読むのは難しい本なんだな。
それでいくと、ディルタイの著作は「客観的歴史的理解は、いかにして可能か」という「歴史的理性批判」という構想のもとで理解できると。この点でディルタイはカントの『判断力批判』の継承者であると。作業としては、コントやミルに類比されると思ってよいのだな。
ディルタイにとって「心理学は心身の複合を記述する際に、それを社会的歴史的生とは不可分なものであることを示しながら、他方ではそれを社会的歴史的生の基礎的単位として維持するという仕方で、記述するのである」(49頁)。「確かに、心理学は、必然的に個人の連関を捨象するが、しかし、意識的生の歴史的社会的本性を維持しなければならない。われわれは、社会的歴史的連関によって条件づけられもせず、それに向かって定位もしていない孤立した心的過程などを措定することはできない」(55頁)。というわけで、心理学の記述対象はディルタイにとって一種の「歴史的アプリオリ」であると理解してよいのかな。
他方で、ジンメルと重なってくると思われるのが「歴史的発展の担い手として、個人はまた、社会的相互作用のさまざまの体系的交差点であると見られねばならない」(56頁)という指摘であろうがが、ジンメルが相互作用で問題にしているのは歴史ではなく社会である。しかも、ディルタイは個人が自由に参加する「目的連関」である文化システムと、個人と特定の集団に結びつける「社会の外的組織」を区別しないとある。
直接性から表象する意識へ。「覚知は、意識の事実の直接的な自己所与性を私の意識の事実として含んでいるから、単なる意識を超えている。覚知は、意識の事実が意識される最初の仕方、すべての反省に先立つ仕方である」(70頁)。このとき意志の実践的衝動への抵抗から、自己省察のもとで、自己と世界の区別が引き出される(内的知覚/外的知覚)。さらに、自己省察は、個別の事実の知覚間のを連関づけ経験をもたらす。というわけで、「意識は、どんな内容よりも大きな連関から切り離しては理解されない連関、あるいは連続体であると捉えられている。この連関を分化し、明確化することを可能にするものは、時間の系列である」(78頁)。この辺、ミードみたい。で、恒常的な現実の連関を作り出すのが思考であり、真理の判断が可能になる。そして、(他人の)「理解」とは内的体験を外的体験と結びつける過程である。苦しそうだと感じるのは相手の振る舞いからである。
こうした過程ではまず分析が先行しそれに総合が続くと。まず一読してすらすらいけたとこだけメモ。この延長上に美的判断がきて、歴史解釈にいたると。社会の話を始めたっていいのに。もっとも、ジンメルの社会学は心理学で解明できるものだと思っていたようだ。470頁の注29。
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