ルーシーとロッドニー

 ルーシーとロッドニーそれぞれ簡単に再訪。『インタラクション』と『プランと状況的行為』を続けて読んだら、前者に出てくる上野発言の少なからずはサッチマンの言ってることまんまだった*1。で、いくつかあらためて気になったこと(原書がいま手元にないのでとりあえず訳文をそのままのせておくが、気になるところはあとで確認して訳文を変えるかもしれない(原書を発掘したので、何言ってるかわからなかった、訳書103頁=原文108頁の引用のとりわけ後半部分を改変。こっちの方が少しはわかりやすくなってると思うのだがどうだろう?))。
 たしかにワイゼンバウムのイライザ*2(DOCTOR)「のデザインは、カール・マンハイムが最初に名づけた、目的的であり、意味あると仮定される行為の意味を見いだすための解釈のドキュメンタリー的方法を用いる人々の自然な傾向を不当に利用していた」(24頁)のかもしれない。しかし、この「不当な利用」(exploit)という言い方はひっかかる。だって、現実には、悪用してプログラムを作ったわけではなく、たまたま、ユーザーがそこに「知性」を読み込んでしまい、それはどうしてかといえばドキュメンタリー的方法が利用されていたというだけのことに他なるまい*3。で、これでチューリング・テストがクリアされたことになるのかと、ワイゼンバウム自身が困ってしまったわけだ*4
 でも、ガーフィンケルの偽カウンセリングの実験では人間によるランダムな「はい」「いいえ」の応答でカウンセリングが進んで行ったわけだし、アグネスも同じようなやり方で女性になり続けた。そして、モデルになったロジャース派ではやはりそれに近いやり取りが行われているわけで、ドキュメンタリー的方法が多用されるようなやりとりは不当もなにも現にある。それと同じことがたまたま簡単なコンピューター・プログラムでも実現されてしまったということの意味はやはり大きいのではないか(もっとも、しばらく使い続ければパターンが見えてきて飽きてしまうのではないかという気もするが)?
 他方、サッチマンが事例としてあげるコピー機は、ある意味で、たしかに、「順番取り」をしているとも言えるわけだが*5、われわれは誰も教示機能のあるコピー機に「知性」を読み込んだりはしないだろう(むしろ、使い慣れた人間にはあのインストラクションがうざい)。

機械によるユーザーの行為への限定されたアクセスを補うために、デザインは手続き的な連鎖のなかでのユーザーの行為という秩序を部分的に強制することを必要としている。この方略は次の場合にかぎり非常にうまくいく。すなわち、ユーザーが生み出した特定の効果がある状態に達していると受け取ることができるとき、これが逆にある機械の応答を含意しているという場合である。この意味では、ユーザーと機械の「順番」という秩序、およびそれぞれで達成すべきことは、あらかじめ確定している。順番移行場でのシステムの”認識”は、本質的に反応的である。つまり、ユーザーが解釈することのないなんらかの行為間の確定した関係があって、それが機械の状態の変化として読み取られ、機械は次のディスプレイへ移行する。検出能力をそなえているユーザーの行為と機械の応答のあいだに確定した関係を確立することで、このデザインは一方的にインタラクションに対するコントロールを司るのだが、ある意味ではそれはユーザーの行為次第でもある(103頁)。

 サッチマン自身は、こうしたプログラムの限界を次のように説明している。

すなわち機械の行為が、明記された条件によって決定されているかぎり、機械と世界のインタラクション、とりわけ人とのインタラクションは、デザイナーの意図と能力、つまりユーザーの行為を予想し制約する能力によって限定を受けることになる。状況と行為の表現(さまざまな種類の表現があるだろう)がもつ一般性が、人と機械のインタラクションのための原理としてのリソースである一方で、このようなスキーマが文脈に対してもう非感受性は、原理としての限界でもある(181頁)。

 しかし、この議論、最初からプランのはっきりしたマシンを設計するという話だよ。人間が無駄話をするように、決まったプランがない、つまりは想定される状況も相対的に固定していないところで動くマシンを考える場合はどうなるんだろう?前掲書では、この指摘がブルックスのロボットにもそのままあてはまると断言されているわけだが、ホントにそうなのだろうか?
 興味深いことにブルックスたちが考案したロボットは、あらかじめロボットの動きが計算されておらず、状況内におかれたロボットのセンサーが世界を分節化し、それでもって行動する*6。「外界の事象を知る必要があれば、ロボットはそこにある世界を、センサを通して参照すればよい」(68頁)。「ゲンギスの身体全体は自らの行動と現実世界のその地点の状況が創発的に作り出す軌跡に従って動く」(87頁)。だから、あらかじめ状況内でどのように動くかは分からない。

ロボット自体が世界に組み込まれることによって生じる物理的な関係が、ロボットが環境との間に発生する濃厚なインタラクションの原因になっていて、この状況下でロボットに知的な動きをさせるということは、力学的な関係を好ましい方向に推し進めることに他ならない。ロボットの駆動系や各部の動きを細かく計算することではない。ロボットは身体を持っていることで自動的に現実世界へ繋がっている。ロボット上で行われるすべての計算処理は、環境中に実在するロボットの動きに反映される(110頁)。

 ブルックスによれば、「私たち研究グループが作ったロボットには、それらが特定の現実の状況下に存在すること物理的な身体を持っていることの二つの共通した原則がある」(85頁)。そして「始めに、ここに述べる基本的な知的能力を知覚と行動のインタラクションから発生するものとして確立し、その上に本当の知的能力が初めて実現できるというのが、当時の、そして今日に至るまでの私の信念だ」(64頁)。
 見たこともないものについてあれこれいうのもなんだが(それはお互い様ということで書かせてもらうと)、このロボットも、しょせんは見ているうちに飽きがくるようなものなのかもしれないが、それでも、このロボットに「知性」を感じる時期があるとすれば、そのプログラムゆえにではなく、世界を識別しながら行動している(だから、パターンを見つけることができる)のに、先の行動に予測のつかないところがあるからではないだろうか?そして、たとえ、一時的にであれ、そこに「知性」を読み込んでどこがおかしいのだろう?現に、われわれは多様な生物に多様なレベルの「知性」を読み込んでいる。私には下のブルックスの議論は説得力があると思う。

面白いことに、気がついてみると、私の理論はここで一巡している。ロボットを人間達の仲間として迎える障害となる論理的な相違点を通過するために、ロボットに対する理性的な審判の度合いを緩めるべきだと主張しているのに気づく。私が強調したいのは、誰もが突き詰めれば、ただの機械にすぎない人間を、過度に「擬人化」しているのではないかという点だ(263頁)。
 もし人間がただの機械にすぎないとすると、私達は機械に対しても感情移入し、敬意を持って接し、相手の感情を認め、意識を持っていると考える瞬間が生じるだろう。そのような瞬間こそが、私達が人間らしさとするものではないだろうか。そうであれば、ただ機械であるということだけで感情は持ち得ないと決めつけることはできない(264頁)。

だから、ワイゼンバウムのイライザの意味はやはり大きいのではないか?ちなみに、ブルックスのところで作られた会話するロボット「キズメット」が、会話の中身ではなく、順番管理のメカニズムしかそなえていないというのもとても興味深い*7

キズメットは、自分に向かって話しかけられた言葉を理解しない。また意味のある言葉を発することもできない。面白いことに、会話の成立にこれらの制約が大した足かせにならないことが分かった。キズメットは人々が話していることを検出し、また音声の中の韻律を検出する。このロボットは、同様に英語の単語を断片的に発声するが自分の発言内容を理解しないし、発声する音声や音節をどう結合すれば意味ある言葉になるかを知っているわけではない。キズメットはただ会話に際しての発言の順番管理のための手段として発言に間を置く、目線を移す、相手がしゃべろうとしない時に間を持たせるための発声をする、などのメカニズムを持っているにすぎない(152頁)。

ところで、もっと最近の研究を知るにはなにを読めばよいのだろう?

プランと状況的行為―人間‐機械コミュニケーションの可能性

プランと状況的行為―人間‐機械コミュニケーションの可能性

でるでると言われていた第二版はこれなのかしら。
Human-Machine Reconfigurations (Learning in Doing: Social, Cognitive and Computational Perspectives)

Human-Machine Reconfigurations (Learning in Doing: Social, Cognitive and Computational Perspectives)

ブルックスの知能ロボット論―なぜMITのロボットは前進し続けるのか?

ブルックスの知能ロボット論―なぜMITのロボットは前進し続けるのか?

 

*1:http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20111113

*2:ここで試せます。http://shower.human.waseda.ac.jp/~m-kouki/cgi-bin/eliza/index.html

*3:

Studies in Ethnomethodology (Social and Political Theory)

Studies in Ethnomethodology (Social and Political Theory)

*4:

コンピュータ・パワー―人工知能と人間の理性

コンピュータ・パワー―人工知能と人間の理性

*5:一方で「順番取り」というのは言いすぎな気もしていたのだが、訳書と違って原文ではturnとしか言っていないことが分かった。

*6:コウモリのようなものですね。

コウモリであるとはどのようなことか

コウモリであるとはどのようなことか

解明される意識

解明される意識

*7:http://www.ai.mit.edu/projects/humanoid-robotics-group/kismet/kismet.html