マスメディアのリアリティ

 原書と英訳も確認したいのだが、とりあえず、

私たちは、私たちが生きる社会、あるいは世界について知っていることを、マスメディアをとおして知っている。---。他方で私たちは、マスメディアについてはあまりにもよく知っているため、その情報の出所をしることができない。私たちは、自衛しようとして、情報操作されているのではないかと疑うのだが、しかしそうしようとしてもたいした帰結には至らない。なぜならばマスメディアから得られた知識は、ひとりでに強化するかのごとく、自分の構造へと再びつながっていくからである。私たちは、すべての知識に疑うべき予兆を見出しているにもかかわらず、その知識を下敷きにして知識を重ね、あるいはそこに接続していくしかないのだ(8頁)。

で、こうしたマスメディアという機能システムが分化するにあたっては、送り手と受け手の遮断が条件となっており、一方で、それが受け手の受容を意識した番組のスタンダード化をもたらすと。「送り手と受け手の関係で同時に存在している者たちどうしのインタラクションという者が発生しない」(9頁)。「マスメディアのコミュニケーションを精算する組織は、受け手にどこまで要求できるか、そしてどこまで受け入れられるか、それらの程度を予想し、その予想に依存している」(10頁)。ここから、マスメディアを介して立ち上がるリアリティと、それに伴う作業というリアリティとマスメディアには二重のリアリティが区別できることになる(他者言及/自己言及)。そして、この二つのあいだを取り次ぐのがテーマだと(22頁)。
 それから、「マスメディアというシステムのコードは、情報と非情報という区別である。情報でもって、システムは作動することができる」(30頁)。当然情報は古くなる。だから「情報がコードの価値として使用される、ということはすなわち、システムのオペレーションは、常にそして強制的に情報を非情報へと変換する、ことを意味する。価値から反対価値へと境界を越えることは、システムのオートポイエーシスによって自動的に起こる」(34頁)。ところで、こうした情報の更新が情報として受け手に驚きや刺激をもたらすためには、受け手に情報をどう受け取ればよいかが分かるようになっていなければならない。「それがプログラムなのであり、この助けを借りてシステム内のあるものが情報にあたるものとして扱われるかどうかということ、が決定される」(30頁)。というわけで「情報を照準に収めたコード化の結果、社会にはある特別な不安と刺激への反応可能性が生まれる」(38頁)。それは、多様なプログラムによって再び補足される一方、システムの構造の変化を記述する。

なぜ、このプログラムがニュースと広告と娯楽の三つなのだろうという疑問はさしあたりここで。
http://d.hatena.ne.jp/contractio/19960131
 

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