乳幼児の環境世界/コミュニケーションするロボット

 たしかに、親なり誰なりが乳幼児の相手をするとき、子どもの周囲にどんなものがあってよく、どんなものがあってはいけないとか、どんな接し方をするとか、補助してやったりとか、かなり周囲の環境を操作しているよね。そのうえで、放っておいたりもする。

プロセスにおいて母親にできることは、幼児の行為や操作して答えを直接教示することではなく、幼児が得る情報の源となる環境、対象の状態を整えてやることだけである(114頁)。

 もっとも、これは乳幼児ばかりにかぎったことではなく、程度の差はあれ、誰かとかかわろうとすれば、われわれは、多かれ少なかれ、相手の環境を操作することになる。それに、人間の生活空間を構築することによっても(たとえば、障害者にフレンドリーじゃないと言われたりするわけだが)、われわれの行動環境はそれなりに操作されている(もちろん、それをどう利用するかは一様ではないが)。
 そうすると、「自律的に多様な行動を獲得するロボット」を考えるというのは、ある意味では、人間以上に高度な注文をロボットに課していることになりはしないだろうか?それから、模倣学習を単純に脳の計算機構に還元されたりするととても違和感がある(だからといって、そのやり方がうまくいかないとはかぎらないわけだが)。乳幼児だったら、親の方が同じことを繰り返して模倣に誘うよ。ただし、次の点はとっても納得できる。

この自律性と効率性に関する矛盾が、現代において、コミュニケーションという言葉が孕んでいる問題の真骨頂といえる。ロボットに効率よく情報を伝送するというコミュニケーションと、ペットロボットに自律性を感じながらつきあっていく上でのコミュニケーションがまるで相反する要求を与えるのである(155頁)。

 で、肝心のコミュニケーションするロボットはどのようなものになるかだが、これだとスペルベル&ウィルソンとよく似たコミュニケーションを想定してロボットを考えることになるな。

前章では二者間のローカルな記号生成を議論したが、より多くの参加者からなる多主体系へと一般化することができる。多主体系であるとはいえ、コミュニケーションを支えるのが解釈者の自己閉鎖的な環境適応能力であるという考えは変わらない。自己閉鎖的な記号過程をもとにコミュニケーションを続ける構成員により形成された集団において、ある種の記号系が共有されるようになることで、集団は記号論的相互作用に基づく協調を行うことができるようになる(205頁)。

 というわけで、「自律適応系は外部から明示的な記号の意味についての教示を何を受けることがなくても、経験を記憶システムによって組織化していくことで記号過程を実現することが計算論的には可能なのである」(183頁)というところから、コミュニケーションの話まで持っていくのだが、そのとっかかりにしたモデル・ケースは「台車押しタスクの共同作業」というそれ自体かなりデザインされた環境での話だよね。ここから一般論までそんなに簡単に拡張できるのかな。この点、わたしは素直に納得できなかった。あとこのようにシミュレートしたロボットは嘘をついたり、遊んだりできるのかしら。とはいえ、面白い本であることは確か。

博論がアップしてあった。http://tanichu.com/wp-content/themes/tanichu/data/doctor.pdf
 

関連性理論―伝達と認知

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