インタラクション

 久々に読み返してみて、以下のところがちょっと気になったのだがどうなのだろう?やっぱり、ルーシーも引っ張り出してみなくちゃだめかな。ついでに、やり玉にあげられているブルックスも。しかし、軽くすませるつもりだったのに、こんなことやってると収拾がつかなくなるな。

言い換えれば、設計者が設計したコンテキストのなかで、設計者の特殊な目的に応じた基準に照らして、ロボットの動きは「知的」に見えてくる。あくまでも設計者にそう見えるということですよね。そういう意味で、ロボットが「知的」であるかどうかは、ロボットの内部構造だけではなく、むしろ、ロボット設計という特殊なコンテキストに依存しているんだと思います。ロボット設計という特殊な活動のコンテキストの外では、そのロボットはきっとちっとも「知的」に見えないんじゃないかと思います(62頁)。

 まず、ロボットの動きはすべて設計者の特殊な目的に応じたものにかぎられると言ってよいのだろうか?言い方を換えれば、設計者は自分がどんなロボットを作っていることになるのかをあらかじめ完全に知ることができるのだろうか?
 そして、こちらはちょっと強引な感じもするが、われわれだって別の場面のインタラクションで設計ないし、決められたことに依存して行為することはあるんじゃないだろうか?とりわけ、オンラインだと。もっとも、環境管理型権力については次のような指摘があたっているのではないかとも思うが*1

少なくともこの犠牲者たち、管理対象者たちとの関係においては、管理者たち、体制の支配者たちとの関係においては、管理者たち、体制の支配者側にいる人々もまた、人間ではいられなくなるーコミュニケーションの主体でいられなくなる、ということです(306-7頁)。

 

インタラクション―人工知能と心

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プランと状況的行為―人間‐機械コミュニケーションの可能性

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ブルックスの知能ロボット論―なぜMITのロボットは前進し続けるのか?

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*1:

「公共性」論

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