ホモ・サケル

 このホモ・サケルと類比的に把握できるものとして、生き延びてしまった捧げ者(デウォトゥス)、皇帝の死、狼男、ホッブスの自然状態があげられていく。「しかしこの生は、単に自然的な再生産の生、すなわちギリシア人のいうゾーエーでもなければ、特性をもった生の形式であるビオスでもない。むしろこれは、ホモ・サケルや狼男の剥き出しの生、つまり人間と獣のあいだ、自然と文化のあいだの不分明地帯、連続的移行地帯なのだ」(155頁)。
 しかし、こうなると第二部の最後でバタイユが批判されているように、社会秩序形成を供犠から説明するような議論は不十分だということになりますな。「バタイユはただちに、例外化の論理の内に書き込まれている、まったく殺害可能でまったく犠牲化不可能なホモ・サケルの政治的身体を、その反対の違犯の論理によって定義づけら得る犠牲的身体の威光と取り違えてしまう」(159)。

ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生

ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生