今日の『ホモ・サケル』

 ホモ・サケル「この聖なる人間は、誰もが処罰されずに殺害することができたが、彼を儀礼によって認められる形で殺害してはならなかった」(107頁)。「このことが本当だとすると、聖化は二重の例外化をなしている。それは人間の法からの例外化であるとともに神の法からの例外化であり、宗教的領域からの例外化であるとともに世俗的領域からの例外化でもある」(118頁)。
 ところで「主権的圏域とは、殺人を犯さず、供犠を執行せずに人を殺害することのできる圏域のことである、この圏域に捉えられた生こそが、聖なる生、すなわち殺害可能だが犠牲化不可能な生なのである」(120頁)。
「主権による例外化と聖化のあいだに見られる構造的な類似の意味が、ここで完全に示される。法的秩序の一方の極にある主権者とは、彼に対してはすべての人間が潜勢的にはホモ・サケルであるような者であり、他方の極にあるホモ・サケルは、彼に対してはすべての人間が主権者として振る舞うような者である。その意味で、主権者とホモ・サケルは、同一の構造をもち互いに相関関係にある正反対の二つの形象を提示するものである」
 「両者は、人間の法からも神の法からも、規範からも本性からも自らを例外として排除しながら、本来の意味での最初の政治的空間をある意味で画定する、そのような運動の形象であるという点で同一である。この政治的空間は宗教的圏域とも世俗的圏域とも区別され、自然的秩序とも通常の法的秩序とも区別される空間である」(122頁)。「これは、主権的な拘束を課すことの原初的な政治的定式化なのである」(123頁)。


 生殺与奪の権「この権力はもっぱら、父と息子のなす関連から直接に生ずる」。「そうした権力は家長が家内でもつ裁判権に関するものであり、いわば家の権力にとどまるものだが、生殺与奪権は、すべての男性自由人に対して誕生時から割り当てられるのであり、それは政治権力一般の範型そのものを定義づけるものと思われる。したがって、原初的な政治的要素とは単なる自然的な生ではなく、死へと露出されている生(剥き出しの生ないし聖なる生)なのである」(126頁)。「行政官の支配権は、父の生殺与奪権が市民全体を対象とするものへ拡大されたものにほかならない」(128頁)。

ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生

ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生