越後妻有アートトリエンナーレ

Talpidae2006-08-18

 私にとってこの夏唯一といってもよい娯楽イベント、ということで、新潟県十日町市一帯、妻有地方で行われる美術イベント、妻有トリエンナーレに行って来ました。しかし、新潟は遠い。現地で車を借りることにしたら、行きは夜行バス、帰りは6時間の汽車の旅。でも、おかげで念願の飯山線に乗ることもできた。信濃川沿いに走る飯山線は、全線のると3時間ぐらいかかるのだが、それで信濃川沿いの風景を満喫することができる。沿線の長野県側は、たしか、藤村の『破戒』の舞台だったはずだ。
 この妻有のトリエンナーレは、3年おきに開催されており、今年で3回目。三百にもおよぶ芸術作品が妻有一帯の至るところに設置されており、それをスタンプ・ラリー風に見て回ることになる(だから、残念ながら車に頼らずには回れないし、また、それが地方の実情なのだ)。もっとも3日の行程では、半分も見て回ることができなかったのだが。それでもついでに温泉に入り、お蕎麦その他地元の食べ物もいただいたりして、完全に世俗のことを忘れて楽しむことができた。
 そんな次第だし、数も多いので、個々の作品についてふれていくことなど到底できないが、いささか乱暴にまとめてしまうと、このトリエンナーレはこんな感じだといってよいのではなかろうか。作品は、この山間の田園地帯、里山のいたるところ、田んぼの畦やちょっとした空き地におかれていたり、あるいは、なかには作って二、三百年にはなるという空き家・廃屋、さらには廃校を利用して作られている。そして、いくつも作品を見ていくと、だんだんと作品と自然や人工物との区別がつかなくなってくる。こうした場所場所に作品がおかれることで、芸術と自然あるいは人工物とのあいだの境界がしなやかになり、二つのあいだで相互浸透が始まってくるのだ。
 たとえば、田園風景のなかにおかれた作品は、あわせてわれわれの目をその田園風景にも向けさせ、その美しさを引き出すことになる。実際、単純に田んぼは美しい。とりわけ山間に続く棚田はほんとうに美しい。また、田んぼに立ち並ぶ稲穂はこの土地の豊かさを確認させるものでもある。現に、作品のなかには、米や土を扱いこの土地の豊かさを主題にしたものもあった。しかし、棚田を維持していくためにどれほどの仕事をしなければならないのだろう(だが、過疎の進んでこの一体で、そのためにどれだけの人がここにいるというのだろう)?必要とされるであろう丹念な作業を考えれば、それは一つの作品とかわるところはあるまい。棚田もまた人智に満ちた作品なのだ。しかも、田園には田園の匂いがあり、畦道を歩けば次々とカエルが田んぼに飛び込んでいくし、草むらを歩けば、次々とバッタが飛びだしてくる。こんな経験は小学生のとき以来だ。それだけで楽しくなる。
 そのうえ、自然や田んぼの合間におかれた作品をみていれば、今度は、自然や田んぼの合間におかれた見慣れない人工物も時として芸術作品のように見えてくる。丸屋根の倉庫や、なぜか一箇所にいくつも並んでいる電柱。どうしてあんなものがあるだろうかと、豪雪農耕地帯の暮らしに思いをめぐらす。しかも、 そうしていると、今度は、そうした人工物を象った作品に出会ったりもする。
 同じように、作品化した空き家を眺めていけば、作品とふつうの民家の区別が曖昧になって、周囲の民家にも目が向くようになる。なにしろ、周囲も似たような民家ばかりで、もちろんマンション、アパートの類を見かけることなどまずない。ここはわれわれの日常の風景から隔絶している。そうして、民家の独特の作りに面白さを覚え、その独特の作りから、雪深いこの地域の暮らしぶり、それから過疎の実態を想像することになる。現に、なんと空き家の多いことか(「古民家売ります、買います」みたいな看板もありましたが)。
 民家のなかに入れば、長い間いろりの煙に燻されてきたであろう柱が黒々と輝き独特の匂いを放っている。また、廃校になった学校(しかし、これもまた無数にあるのだ)には、イスや机、下駄箱など、かつて使われた品々が、時に名札が貼られたままで残っていたりする。こうした匂いや忘れ物が今でも示すように、民家やかつての学校は、幾世代もの人々がそこで暮らしてきた記憶の集積する場であり、そこで示される作品もしばしば記憶を主題にしている。その地域に住むお年寄りに話を聞くなどして、それを作品に活かしているようだ。こうして作品と作品がおかれる場は一種の鏡像関係のなかに置かれ、作品が場に転移し、場が作品に転移する。
 こうした作品をみながらジョン・ケージの『4分33秒』のことを思い出した。この楽曲はかれの相棒であったピアニスト、デヴィッド・チュードアがピアノの前に座ったまま4分33秒のあいだ一つも音をならさなかったというものだ。この『4分33秒』は、音楽という制度に仕掛けられた一種の檸檬(爆弾)であり、音楽史的には大事件であったわけだが、同時に、この作品が開いたのは、われわれの周囲で鳴っているすべての音が音楽として聞かれうるという豊かな可能性でもあった。実際、われわれのなかにも日常鳴っている音を楽しんでしまっている瞬間というものがあるはずだ。そんなとき、しばしば日本の文化が引き合いにされたりするのだが、たとえば、鹿おどしなんかを思い浮かべるとよいかもしれない。
 そして、これは音楽だけにかぎった話ではない。昔ながらの日本の民具の凝った作りは、日常生活のなかへの浸透とした芸術作品として高く評価されることもある。これもなんのことはない。たとえば、ふすまや障子のことを考えるだけでも分かるのではないか。そこに描かれた柄や、ちょと凝ったさんなど。そして、それはここで空き家となった民家を見て回るなかでも確認できる。
 ちなみに、これは日本の民具だけに限った話ではない。チャールズ・イームズのような作家がデザインした20世紀初頭の家具を見ていくと、地下鉄の駅においてあるカラー・イスのようなものも、かつては先端的でモダンなアート作品としてデザインされてきたものだということがわかる。つまり、われわれの日常生活のなかにも、きわめて馴染んでいるため気づいてはいないが、芸術作品が入り込んでいるのだ。
 こうしたアートと自然、あるいは日常との相互浸透は、おそらく、いつでもどこでも生じうるものだ。この妻有トリエンナーレがわれわれに喚起するのは何よりも、そうして日々おこっているであろう相互浸透であり、作家たちは里山のなかに芸術作品を据えることで改めてこの相互浸透を取り出して見せたことになるのではないかと思う。そして、こうしてこの地域、里山のそなえている魅力を引き出すことが、また、町作りの一貫でもあるのだ。
 
 まだ、夏休みもトリエンナーレ(9月10日まで)も続きます。興味のある人は行ってみてください。
http://www.echigo-tsumari.jp/