鹿野政直『資本主義形成期の秩序意識』

 とにかく、読み応えがあった。もちろん分量だけの話ではない。社会主義の登場で話が終わる当たりに時代的なものを感じてしまうところもあるが、なんでこの本を著作集に加えなかったのだろう?あるいは、版元は文庫化しようと考えたりはしないのだろうか?
 読みながら、何よりも感じざるをえなかったのはある種の既視感だった。結局、江戸時代からこのかた我々は同じことを繰り返しながら、少しずつ昔の社会の枠組みを壊して生きてきたんじゃなかろうかって。既存の体制からはずれて新しい体制を構想しようとしても、そこであてにできる意味論は既存の体制の延長にある倫理主義的ないしは精神主義的な態度であり、でなければ「先立つもの」。そこに終始しがちなままここまでたんじゃないだろうか?
 実際、おおざっぱにみれば、この間、徳と利というこの二つをミックスすることで、既存の体制は更新されてきたように思えるし(いままたそうしたがっている人たちがいるみたいですが)、さらに体制の枠組みから外れてしまうならば、それはどうしても観念論的ないしはきわめて個人的で内面的な思惟へと流れていかざるをえない。近代日本における思想的営みが圧倒的に文学(それも私小説)優位できたのはそのせいでしょう。そして、この枠組みの作動にたいして唯一例外的な位置を占めたのが、おそらくは社会主義思想なのだが、逆に、この例外性が社会主義思想をとっつきにくいものにしてしまったことになるのかもしれない。
 本に戻れば、江戸時代、武士の忠誠の観念は形骸化し、いわば自分の既得権を維持することに汲々とするようになる。幕末期、こうした体制に異議を申し立てようにも、下級武士がもちあわせているのは、既存の身分制を疑問視する要素を含みこませつつも、やはり忠義の観念だ。彼らは、それをたてに特権的な意識を抱くことができたが、それでも幕藩体制を相対化して見るには限界がある。こうなるとどうしようもなくて、たとえば吉田松陰がそうだったように(106頁)。いわばそこで「狂う」しかない。それを乗り越えて進もうとすれば、浮上してくるのは「利」、つまりは実学的な精神である。だからこそ、攘夷から開国へとあっという間に転進することができたわけだ(120頁)。他方で、農民が似たような状況から宗教的なものへ流れていく経緯は安丸本でも確認されている通り。
 維新後権力をにぎった薩長は自らの権力を保持するために、天皇という「人格」を利用し、民衆の規範化を図る一方で、民衆を実学的に教化しようとする。だが、その過程で生じてくる自由民権運動に対しては、進化論的な優勝劣敗の意識でもってのぞむ。加藤弘之の転向を想起せよ。つまり、ここでも徳と利が結びついてくる。
 他方、豪農層を主体とした自由民権運動は、その経過への評価をおくとすれば、国権の発動を前にした挫折感から政治を離れて実業や農業改良に向かい、体制内での名望家層に転じていく(301頁-)。ここでも徳と利が浮上している。こうして国内にほとんど反対者のいない状態で日清戦争が起こる。日露戦争の前後からさらなる産業化の推進のために政府サイドから国民統合の動きが起こり、地方改良運動等がすすめられていく(458頁-)。これも、徳と利。
 そんななかで、別の世界像の下に立てたのが、同様に労働者を教化する立場からスタートした社会主義思想だったということになるのだが、これがどれほどの拡がりをもつものだったかは言うまでもなく心許ない。
 そんな調子で読み進めていったのだが、こんなまとめかたをすると、ボクは著者のねらいよりは随分とネガティブにこの本を読んでしまっているのかもしれない。