『オリエンタリズム』

 もう記憶の彼方だが、学部生当時この本を最初に手にとったとき、いきなりこんなことを言われても、何のことやらほとんど分からなかったのではないかと思う。

むしろオリエンタリズムとは、地政学的知識を、美学的、学術的、経済学的、社会学的、歴史的、文献学的テクストに配分することである。またオリエンタリズムとは、(世界を東洋と西洋という不均等な二つから成るものに仕立てあげる)地理的な基本区分であるだけでなく、一連の「関心」、すわなち学問的発見、文献学的再構成、心理学的分析、地誌や社会誌の記述などを媒介としてつくり出され、また維持されているような「関心」を精緻なものにすることでもある。さらにまた、オリエンタリズムとは、われわれの世界と異なっていることが一目瞭然であるような(あるいは我々の世界にかかわりうる新しい)世界を理解し、場合によっては支配し、操縦し、統合しようとさえする一定の意志または目的意識ーを表現するものというよりはむしろーそのものである。なによりも、オリエンタリズムとは言説である。その言説は、生の政治権力と直接の対応関係にはなく、むしろ足す多様な権力との不均衡な交換過程のなかで生産され、またその過程のうちに存在する。それは(植民地制度または帝国制度みられる)政治権力との、(比較言語学、比較解剖学、または現代政策諸科学のごとき流行の学問にみられる)知的権力との、(趣味とテクストと価値にすいての瀬藤性ならびに規範に伴う)文化的権力との、(「我々」の行動についての観念ならびに、「彼ら」には「我々」のごとく行動し理解することはできないとする観念にみられる)道徳的権力との、こうかんによってかなりの程度形成されるものである。実は私が本当に言いたいことは、オリエンタリズムが、政治的であることによって知的な、知的であることによって政治的な現代の文化の重要な次元の一つを表現するばかりか、実はその次元そのものであって、オリエントによりはむしろ「我々の」世界の方により深い関係を有するものだということなのである(40-1頁)。

 しかし、いま読むと、そのメカニズムは、たとえば、前述のエリアスの議論なんかとも通じる部分が多いことに気づく。ただ、それはきわめて大がかりなプロジェクトわけだが。

すなわち、オリエントの知識は、力を背景に発生したものであるからこそ、ある意味で、オリエントや東洋人やオリエント世界を創造するのである。---。要するに、登場人は、いずれの場合にも、支配を体現する枠組みのなかに封じ込められ、またそのような枠組みのもとで表象される存在なのである(100頁)。

 歴史そのものがそうであるように、歴史のなかの事物もまた、すべて人間によってつくられるものであることを認めるならば、多くの事物や場所や時間が最初に役割と一定の意味とを割り当てられ、その割り当てが行われたあとになってはじめて、それらの役割と意味とが客観的な有効性を獲得する、という事態も納得されてくるだろう。これは比較的なじみのうすい事物、例えば外国人とか突然変異、あるいは「異常」な行為について、とりわけよく当てはまることである(129頁)。
 自分がよそ者ではないとする感じ方は、往々にして、自分の領域を超えた「向こう側」の土地に関するはなはだ厳格ならざる観念にもとづいたものなのである。人は、自分の属する空間の外側にあるよそよそしい空間を、ありとあらゆる種類の空想や連想やつくり話で充満させるもののようである(130頁)。

 結局のところ、権力的な関係の差を背景に、オリエントの知識が、現実の如何にかかわらず、西洋との対比として言説として構成されていき、それでもって、東洋人が、規範的に認識、評価され、植民地支配が正当化され、統治政策等々が実施されていくと。サイードはその様子を演劇にたとえている(149頁)。

オリエンタリズム 上 (平凡社ライブラリー)

オリエンタリズム 上 (平凡社ライブラリー)