『目に見えぬ文字』(アーサー・ケストラー自伝)

 実はしばらく前から、スターリン主義時代のソ連のことが気になって仕方がない。まだ自分でもなぜだかよく分からないのだが、一つには、どうもこんなところではないかと思う。スターリン主義時代に行われた尋常でないことの数々はよく知られているが、それは途方もないもののように思われるかもしれないが、どうやらそこには理にかなったメカニズムがあったらしい。なんでそんな残虐な仕打ちが可能だったのか?そして、そうしたメカニズムは社会主義の終焉を生きる我々とは無縁のものなのか。そんなことを考えてみたいからだと。
 
 しかし、そんなことに首と突っ込んでいる暇はないので、敬して遠ざけることにしていたのだが、GW休みに入って、アーサー・ケストラーの自伝『ケストラー自伝 目に見えぬ文字』(彩流社)を古本屋で見かけてしまった。連休中なら一冊ぐらい手を染めてよいかとつい購入してしまう。

 ケストラーというと、ちょっと前なら『機械の中の幽霊』とかニュー・サイエンスの文脈で目にしたことが多いように思われるが、もともと名の知れたジャーナリストであり、入党経験もあるが、なによりもG・オーウェルなんかと並んで早い時期から社会主義への疑念を表明したことで知られ、『真昼の暗黒』 (1940)は政治小説の傑作とされる(未見)。ちなみに、二人ともスペイン内戦を経験しており、オーウェルにはケストラー論がある(『鯨の腹のなかで』平凡社)。

 この自伝を読んでいくと、冒頭からケストラーが一種の「二重思考」(オーウェル『1994』)にはまっていく経験が描かれている。しかし、この二重思考を支えているのは、ビッグ・ブラザーではなく、革命に忠実であろうとする革命家の良心だ。

 現存した社会主義国は、誰もが誰もに対するスパイであったような社会として伝えられている。たとえば、子供が家庭内での両親の言動を観察しており、密告が奨励されていたといったといった具合に。そうして、社会主義国の異常さが指摘されるのだが、この尋常でなさが、一見まっとうと思えることの裏返しだったとすればどうなるだろう?もしも、われわれが何らかの理念に準じたとする、それも、徹底的に理念に準じようとすると、一体どういうことになるのか?

 たとえば、日本共産党住民運動をする人たちの間では評判が悪い。私が、少々関わった水俣病運動がらみでもそうである。なぜか?戯画化して書けばこんな具合になるのではないか?彼らの大義は、窮極的には、共産主義革命の実現にある。他方、住民運動の担い手にしていれば、自分たちがコミットしている運動は、取り替えのきかない自分たちのニーズに根ざしたものである。この二つが出会うときどんなことが起こるだろうか?前者からすれば、後者の運動は、自分たちの目的にとって有用であるか、そうでないかという観点から評価されることになる。つまり、個別の運動の外に革命という目標を据えるかぎり、個々の運動は利用すべき道具でしかない。そして、運動の成果は、その利用価値を認めた党の先駆的判断の正しさを示す証しとなるだろう。こうして、あらゆる個別の運動は、この究極の目標たる革命を実現するための手段におとしめられる。

 つまり、われわれが理念に準じようとするならば、われわれの周囲をとりまくすべては、この理念から評価されることになる。その極限にあるのは、あらゆるものの道具化だ。すべては、革命という理念を実現するための手段へと変容するわけである。この近代合理主義の権化みたいな発想が突き進められたらどんなことが起こるだろうか?ケストラーはこんな風に書いている。「細胞内部での個人間の友情は、必ずしも嫌悪すべきものではないけれど、やはりいささかまぎらわしく、政治的には「派閥主義」のきらいがあるものと見なされた」(24頁)。

 その先を引用するとこんな感じだ。

寄宿制学校や修道院で、あまりにも固い個人間の絆が、性的関係の疑いをかけられるように、党内での個人的感情は、政治的疑惑を自動的に引き起こすものとなった。こうした見解は一概に不条理とも言えない。生活をすべて党にささげ、党によって満たされている場合には、政治を抜きにした友情など、まず成立し難いからである。党のスローガンは、個人的友情を退け、大きく広がった、個人とは無関係な、「労働者の連帯」を強調した。党への忠誠とは、言うまでもなく、党への無条件服従を意味する。さらにまた、党の路線から逸脱した友人の否定、あるいは何らかの理由でそうした疑いをかけられた友人の否定、を意味した(24頁)。
 細胞の中での私の発言、さらに、ブライベートな状況の中で、例えばベッドを共にした女性党員などに私がもらした言葉でも、一つ残らずちゃんと記録されていて、いつか将来私を告発する資料となりかねないことを、私は知った。細胞の他のメンバーとの関係は、決して信頼などにおいてはならず、革命的監視の目をもって常時見守らなければならぬことを、私は知った(24-5頁)。

 自らを革命の道具とすること。ここでつまづきの石となるのはわれわれの良心である。ケストラーは言う。「礼節、忠誠、フェア・プレイの原則などといったものは、絶対的基準ではなく、競争的ブルジョア社会が作り出した、たまゆらの影に過ぎないことを私は知った」(25頁)。

 しかも、良心、それも共産主義に対する忠誠、は二重思考を強いる。たとえば、革命のためには人を欺くことも必要である。そこで、こう口にしたとしよう。「私は共産党員ではない」と。だが、この嘘に一抹の良心の呵責を覚えるとすれば、このとき革命の理念に逆らい情に流れる己は十分に革命的ではない。だから、良心が創りあげる世界像を理念が創りあげる世界像で覆い被せていかなければならない。つまりは、二重思考である。そして、この二重思考を支えているのもまた革命への忠誠、つまりは良心でなのある。こうして、その都度発動される情と革命への忠誠あいだで、良心は引き裂かれる。

 ケストラーはブレヒトの『処罰方策』を引きながら、こうした良心を消し去ることのできない老革命家から死を導き出す。「「若い同志」は実は、あのボルシェビキの古株たちを象徴する。内戦の世代を生きた彼らは、人間らしさの痕跡をとどめていたが故に、何よりも古風な革命家であり、「革命のために胸の高鳴るのを覚える」人々であった故に、合唱隊の利害よりは苦力たちの利害を重視する人々であったが故に、石炭がまに投げ込まれなければならなかったのである」(48頁)。

 この石炭がまとは粛清のことであり、老革命家とは、たとえば、ブハーリンのことである。粛清については、ブハーリンのようなたたき上げの革命家までもが、ありもしない罪の自白をもとに処刑されたと伝えられている。拷問や利害関係に左右される日和見主義者ならまだしも、なぜ、筋金入りの革命家がそんな自白に同意することができたのか?自伝によれば、『真昼の暗黒』が主題としてのはこの点に他ならない。

 
 ところで、亀山郁夫は、『大査問官スターリン』を刊行した後のインタビューのなかで、ブハーリンの自白について問われて、それを次のように説明している(もっとも、この本そのものは手を出すとはまりそうなので、本屋で手に取ることすらしていないのだが)。 「自白というのは結局のところ、原罪意識なんですね。つまり神がいるわけです。それは社会主義という理想なんです。社会主義という神の前で自分が絶対的に罪を犯しているという意識がある。スターリンは正しいかもしれない、という思いが彼らには絶対あった。---。現実に自分が粛正される側にまわって、死の恐怖を感じた途端、神は存在すると分かった」。

 この原罪意識をここでいう良心に重ねても大差はあるまい。革命家を支えているのは自らの革命に対する忠誠である。しかし、既に見たように、革命が革命家に要求する忠誠とは、革命の道具と化すことである。だから、革命という理念を前にすると、革命にたいする忠誠は革命家の最後のよりどころとはならない。もし粛清が革命という大義にかなったものであるならば、いくら自らが革命にたいして忠実であろうとも、いや忠実であるからこそ、革命の道具たる革命家は、汚名を買ってまで死に赴かなければならないからである。

 言ってみれば、革命家は常に決定的なところで弱みを握られているのである。それは自らが革命に対して忠誠を誓っていること、つまりは良心を保っていることである。革命に忠実であろうとすれば自らの手は汚れている。だが、そう感じる良心のかけらは自らが十分革命的ではないことの証でもある。革命家を革命へと押し進めていくのが良心だとすれば、その分だけ革命家を十全に革命的たりえなくするのもまた良心なのである。裏を返せば有能な官吏であったというスターリンはきっと良心を持たない。

 これは救いのない話だろうか?オーウェルは、ケストラーを評しながら、すべての革命は失敗するが、その失敗はすべて同じというわけではないと述べていた。また、ケストラーは以下のようにも書いていたのである。

実はここに今一つ、別な人間的要素が介在する。それがこの巨大な機械の分解、崩壊を防ぎ、きしみながらも何とか伝動を可能とし、油の切れたベアリングをも、何とか動かし続けたのである。その要素とは、あるカテゴリーに属する人々である(197頁)。これらの人々は、共産主義者であろうとなかろうと、「ソ連愛国者」である。---。英雄でもない。聖者でもない。彼らが備えている市民としての美徳は、彼らが奉仕する体制の気に入らぬものばかりである。誰も彼も責任を恐れ、責任を逃れようとしている国で、彼らはまじめな責任感にたって行動している。盲従がお決まりとなっている場所で、彼らは自己の判断に基づき、自己の責任において行動する(198頁)。個人的名誉とか、おのずから発する威厳ある振る舞いとか、今では一般にあざけりの対象としかなっていないものを、彼らは依然として身につけている。---。こうした人々は何千、何万といるけれど、全体ではやはり少数者であり、新しい粛清が起こるたびに、まず血祭りにあげられるのは彼らである。だが彼らは決して滅びはしない。---。こうした剛直で、勇敢で、英気に満ち、献身的な人々こそ、彼らが守る一切の価値を否定する政体の、今も昔もバックボーンとなっている人々なのである(199頁)。

ケストラー自伝―目に見えぬ文字

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それからこれも読まないとまずいらしい。
ヒューマニズムとテロル (メルロ=ポンティ・コレクション 6)

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