私、風邪ひとつひかない人はリブなんかやらないで欲しいと思ったわ

田中美津 上野千鶴子『美津と千鶴子のこんとんとんからり』(木犀社2003)

 西村本が面白かったので、積ん読状態だったこの本を引っ張り出して、出先でちょぼちょぼ読む。上記は168頁の上野の発言。こんな感じで面白い発言てんこもり。原著は1987年、20年前に出てたんですな。当時のボクがこれ読んだらどうだったんだろう?ひっかかった発言をいくつかピックアップすると。
 まず、状況にたいするコミットメントというからみでいくと

ぎゅーっと革命と抱きあっていくオルガスム願望があるわけじゃない。で、もうそういうんじゃだめなんだっていう感じ。あれは絶対犠牲を必要とするんだっていう直観ね。特攻隊とおんなじ。だれか泣く人がいてくれるから、白いマフラーをただびかせていく自分が美しいんであって。もしだれも見送らなかったら---(田中68頁)。

たとえば、やっぱり運動ってのは支持されなきゃいけないから、みんなの期待を体現するようなとこがあって、ある種ステレオタイプを生きることになっちゃうんだよ。---。私、その退屈さ、それがいやで、毒になってしまって、そういうとき、---(田中161-2頁)。

つまり、たまたまそうせねばならないハメに陥ったとしても、そうなったら自分をそこに投げ込んで、トコトン楽しむだけで、(田中136頁)。

 このあたり、田中美津の「リブっていうのは、今生きている”この私”を丸ごと運動化しようとした運動だからね」(16頁)というのがよく現れているように思う。他方、男はといえば、

日本の共同体の実験は、連合赤軍で一つの極限の形をとって、瓦解したんだと思う。そのあと、多くの共同体が結果的に家族という単に分解していったでしょ(上野56頁)
同世代の男たちをみてたらね、家族帝国主義とかって言いながら、父になることとか、家族を引き受けることを通じて、彼らは、いわば外圧による成熟の強制を引き受けていったのね。---。やっとの思いで自分の成熟の課題を果たしていったんだけども、そのタイプの成熟の仕方っていうのは、昔ながらの男権的な男の成熟とちっとも変わらないのよね(上野59頁)。

 でも、女も

国際婦人年以降、運動が「人権」とか「男女平等」とかのキーワードで動くようになって、いわゆる法制度を変えることに主眼がおかれるようになっていったでしょう。そういう意味では、「私」の痛みを起点に世の中を見て、私の変革と社会の変革を同時に進行させようとしたウーマン・リブの運動より、確かに参加しやすくなったとは思うのね。でも、自らを問うところから始めるという発想が希薄になって、そのぶん教条主義が強くなったという感じを受けるんだけど---(田中48頁)。

 それで、

女が抑圧されてるという認識にたどりつくために、何で私自身が母と同じように、結婚し、子どもを産み、夫に仕え、姑につかえる三十年を送んなきゃならないのよ(上野80頁)。
再生産を労働から救い出すには、再生産を苦痛だと言わずに、遊びにするしかないんだと言ってるけど。再生産遊びの恋愛遊びの二つがありまして、私は---(上野105頁)。

 こんな感じで並べてみると、二人の発言は同じ問題の枠組みを示しているように思う。これがリブの成果の一つと言っていいのかな。痛いところつかれてるなと感じる一方、でも、現状を鑑みるときそれがどうなったのかということもあるとは思うが。

美津と千鶴子のこんとんとんからり

美津と千鶴子のこんとんとんからり