近世の村社会と国家

 第2部まで読み進めて、やっとこの人の発想シェーマが分かってきた。読んでいて居心地が悪いと思ったら、やはり、私がシンパシーをよせてる勝俣や藤木の知見の肝心な部分は否定されるのだな。和辻とは正反対だが、やはりここには意識を統一した民衆という発想が隠れているのだが。この本、どういう評価を受けているか知りたい。
 初期「村方騒動」を背景として生じたのは「「小百姓」枠の拡大傾向」であり、「前期村方騒動の展開の意味は、単に闘争主体の下降・深化の過程においてだけではなく、部分的側面においてではあれ、村構成員の村政への関与拡大の動向をも含め考えることによって初めて十全に捉えられる」(101頁)。
 その前提としてあるのは「統一権力の村創出が、現実の農民の生活・生産単位を考慮しつつも、理念的には属地主義的なかたちで、村切り・土地把握から入っていかざるをえなかったことが理解できると考えるものです」(153頁)。で、庄屋が創出されたと。そして、属地主義と属人主義のあいだにはズレがあり、「属地主義的なかたちで創出した村を庄屋を通じて管理する方式から、農民の村〈村〉を掌握・管理する方式への転換として捉えられるのではないか」(175頁)。
 後ろから書いてくれた方が分かりやすかった。分断統治というのは確かにありそうな話ではあるが、ここで示されているのはすべて農民サイドからの議論であり、ここから統治サイドの政策を読み取り、太閤検地による分断策も農民の当事者主義的な自立性は充分に解体できないななまま結局小百姓も参加するというかたちで村の自治が回復するという話を引き出すのは強引だと思う。そのためには、戦国大名から豊織政権、江戸初期の農民政策の意義を再評価する必要がでて来ようが、そうした作業は行われていない。
 

近世の村社会と国家

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