社会問題の構築

 今読み返すと分かったようなわからないような本だな。課題は「社会問題」をどう定義するか。社会解体を問題にする機能的原因論アプローチ。どうすれば事象がシステム要件に抵触することが説明できるか。社会解体論は実際なにをやっていたのか?規範的アプローチ。人々が定義する。人々の定義は常に正しいか。社会学者はメンバーから独立に社会問題を定義可能か?。このときの基準は?価値葛藤アプローチも同じ問題に横着する。そして、これはすでにラベリング理論に見られたものである。

定義的アプローチの論理的帰結に到達しようとするなら、社会問題の定義の参加者である社会学者は、客観的な観察者もしくは学者としての特別な地位を認められるべきではない。社会学者が定義過程で他の参加者から科学者として取り扱われ、利害関心と偏見をもたない専門家としての特別の地位を与えられるかどうかは、一概には答えられないプロブレマティックかつ経験的な問いなのである(109頁)。

 異議申し立てをするグループと他のグループの相互作用を関心の中心に据える。このとき社会問題や逸脱といった定義は経歴を持つ。社会問題とは一定の社会状態ではなく,その存在を問題視し定義する人々による活動である。さらにそれに反応する参加者の視点。価値/利害への志向。動機を構成し付与する。具体例。仮説としての社会問題の自然史。①争点作り;不満・証拠、②集団の正当性の認知:公的機関の反応、③異議や要求の再登場;クレームのルーティン化、④確立された手続きへの反応。なんて定式化してしまってよいのかな。
 これも状況の定義をめぐる相互作用という枠は超えない。ただ、ここでは異議申し立て活動はメンバーが行う観察可能な実践であるとされる。そして、社会学者はこの実践を忠実に記述できているかが、いわゆる構築主義論争の争点だと言ってもよかろう。これができていないと、社会問題は感受概念として、シンボリック相互作用論の系列にある意味でおさまってしまう。しかも、形成されるのは自己というよりは社会問題であるが、この話はアイデンティティ・ポリティクスに直結できる。これはシンボリック相互作用論が優れた理論だからというより、大まかな理論だからであり、件の相互作用の内実に立ち入ろうとしないからだ。

社会問題の構築―ラベリング理論をこえて

社会問題の構築―ラベリング理論をこえて