田中正司『市民社会理論と現代』

 お仕事用の読書としておさらいに有益だった。ここでは、スミスとヒュームを比較して、スミスの同感理論を評価したた部分をメモしておく。しかし、スミスは触れれば触れるほど面白い。

スミスの同感は、このように、ヒュームのそれのような観察者の立場からみた快苦の直接的同感論ではなく、個々の主体がそれぞれ立場交換をしてみた場合、相手の行為や感情に移入し、それについてゆけるかどうかに行為や感情の適宜性判断の基準を求めるものであった。---。それは、むしろ、道徳判断の客観性の基準を外部的なものに求めていたヒュームに対して、人人関係そのもののうちに道徳判断の原理を求める考え方の成立を意味するものであった。スミスの同感論は、一言でいえば、道徳感情の成立を人間相互の社会関係そのもののうちに求めるものとして、道徳感情そのものの社会性認識に新たな紀元を画するものであったのである(243頁)。
 換言すれば、スミスの道徳感情論は、ホッブス以来の近代自然法の主題を批判的に継承したものとして、近代自然法がその論理的支柱としていたホッブス的立場の交換の論理を内面主体化することによって、社会の秩序原理としての自然法の課題であった人間の自己偏愛性克服の論理と一人称化(人格主体化)しようとしたものであったのであるが、その次第は、彼が「想像上の立場の交換」に基づく同感が必要な根拠を人々の間の利害の相違に求めるとともに、そうした利害の異なる人々の間に成立する同感のうちに社会的共和(一致)の基礎を求めていたことからも知られよう(250-1頁)。

 で、ほとんど無根拠に思いついたことを書き付けてしまうのだが、18世紀にスミスのような同感理論が生まれてきたことは、社会的背景を考えるとそれなりのもっともらしさがあるように思える。というのも、一方で印刷技術の普及による自己意識の発達があり、他方で、ブルジョア社会の発達がある。といっても、当時のブルジョア社会なんて狭いものだろうから、成員の少なからずは顔見知りとか知り合いの知り合い程度のものではなかろうかと思われるし、そうでなくても、同質的な人間の集合だから、相手の身になって物事を考えることが比較的容易な社会的条件が整っていたことになる。だとすれば、スミスの同感理論は当時の社会状況をそれなりにリアルに映し出すような理論として構想されているということになると思う。