心的外傷と回復

 今となってはという部分もないではないが、やはりこれは精神医学の世界だけの本ではないな。また、実際、そういう影響力をもったわけだし*1。integrityという単語のニュアンスは難しい。
 「基本的信頼が人生の最初期における発達においてかちうるものの代表だとすれば、人格の統合性とは成熟期における発達においてかちうるものの代表である」(239頁)。「人格の統合性とは死に直面しても人生の価値を肯定しうる能力であり、自己の人生の限界の有限性と人間の条件の悲劇的限界と和解する能力であり、絶望なくして現実がそういうものであることを受容する能力である。人格の統合性は対人関係における信頼をそもそもその上につくった度合いであるが、いったん砕かれた信頼をとりもどす土台である」(240頁)。
 で、回復の話しになるのだが、そうするとこの問いはどうしてもでてくることになるが、フランクルほど楽観的ではないとはいえ、ここはべき論で話が進められてるな。
 「どうしてまた?」「この底知らない深い問いを乗り越えると、生存者はもう一つ別の問い、やはり答えのない問いに直面する。それが「どうしてこの私に?」である。彼の悲しい運命が恣意的ででたらめ敵であるということは正義のある世界、予見可能でさえある世界の秩序への信仰を公然と無視するものである。外傷のストーリーの全面的な理解を伸ばすためには、生存者は罪と責任という道徳的問題を検討して、彼が不当にこうむった苦しみに意味を与える信条体系を再建しなければならない。最後に、生存者は思考を操作し錬磨しても、それだけでは有意味感を再建できない。不正を癒すには行動も必要である。生存者は何をなすべきかを決めなければならない」(278頁)。
 復讐の幻想、許しの幻想、つぐなわせ幻想はしりぞけられる。「服喪追悼の過程の間、生存者はオトシマエをつけることの不可能性を直視しなければならない」。「他の人びとと手をたずさえて加害者にその犯罪の弁明責任を問う過程が始まるのである(297頁)。「むろん生存者は自分に与えられた危害には責任があるわけではないが、自分の回復には責任がある」(301頁)。「生存者は自分の道徳的高潔性の喪失を痛み、取り消せないものに対してはつぐなう自分なりの方法を見つける必要がある」(302頁)。
 たとえば、先ほどの三つの幻想がそうであろうし、ホロコーストのあとのイスラエル、あるいは児童虐待やそれにともなう人格障害は反復されると言われているけれど、こうした連鎖をとめるのは被害者しかいないということになるのかな。被害者はその道徳性を捨てざるをえなくなるけれど、それをもう一度取り上げなおせるのは本人しかいない。そうすると、不条理だが被害者にある種の道徳的責任が課されてくることになる。もちろん、これは「加害者に罪をまぬがれさせるものでは全然ない」(302頁)。ちょっと、実存主義風である。
 「現実生活の場で力を持つということはしばしば危険に直面するほうを意識的に選ぶということである」(310頁)。これは自己の身体反応と感情反応をコントロールすることにつながり、自分を脆弱にしてきたこれまでのやり方を見直すことにもつながる。虐待なんかはそうだよな。そして、「自分自身の中で外傷的環境によって形成された面がどれかを認識し、それを「手放す」につれて、生存者はまた、自分を赦すようになってゆく」(321頁)という。つまりは、まず「自分自身との和解」が社会ましてや加害者との和解のためには必要になるわけですな。
 

心的外傷と回復 〈増補版〉

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父-娘 近親姦―「家族」の闇を照らす

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