プラムナッツ『イギリスの功利主義者たち』

 社会学では功利主義をきわめて矮小化して理解している。なにせ「最大多数の最大幸福」という話が出てくることはまずなく、ひきあいにされるのもホッブスとスペンサーぐらい。でも、コントとミルは仲良しだったりする。そんなこともあってちょっと古いけど手元にあったのでこれを読む。私にはちょっと懐かしい名前。『近代政治思想の再検討』ももう入手不可なんだろうな。
 まず、ホッブスだが、ホッブス功利主義者の先駆とされるのは、政府を利益の調停者としてみているからである。最初の「彼」とはロックのこと。

彼の政治哲学全体の中心となっている観念は、すべての合法的な政府は政府が創造したものではない権利の擁護者であり、国民は自分たちの権利が擁護される限りにおいて服従の義務を負う、というものである。ところが、ホッブスの理論の核心は、性つとは利己的利益の調整者だ、ということである(37頁)。結局、彼にとって重要なものは安全だけである。換言すれば、すべての人がそのもとで利己的利益を見出しうる法の規律だけである。ホッブスにとって、この法の規律は利益の調和をもたらすものである。だが、その利益の調和は、賢明な人ならだれでも自分の幸福へのもっとも確実な手段として望むものであるけれど、それだえkで望ましいものではない。功利主義者にとって、この利益の調和が公共の福祉であり、この公共の福祉は、道徳の客観的基準であるか、もしくは道徳的感情が事実そこへ向けられる目的であるか、このどちらかである。ところが、利益の調停者としての政府という観念は、ロックによって無視されても否定されてもいないが、彼の哲学にとって核心的なものでない。この点こそ、功利主義者がおかげを受けたのはロックであるよりも、むしろホッブスであると言えるための確かな理由なのである(38頁)。

 で、功利主義者本体の議論だが、ベンサムの議論、ないしはその紹介が散漫なので、ここではジェームズ・ミルの議論を紹介した部分を引用してみる。ここではお互いがお互いの行為を動機づけるような関係に立つことが想定されていることがわかる。

各人が自分の好きなように行為することが許されるとしたら、誰でも他人の快楽を考慮しないで、自分自身の快楽と追求するだろう。しかし、誰もが自分の好きなように行為することは許されないし、人々は経験によって共に仲よく暮らすことを学ばねばならない。数多くの行為のなかから、道徳的と呼ばれるものと不道徳的と呼ばれるものとを選別することを人々に教えるのは経験である。当人自身はその行為を行ってもなんの利益もえないが、それを行うことがほかの人にとって重要である行為、そういう行為は道徳的である。そして、当人自身はその行為を控えてもなんの利益もえないが、それを行わないことがほかの人にとっては重要である行為、そういう行為は不道徳的である。人々は互いに道徳的行為を行って、不道徳的行為を控えるための動機を提供し合う。道徳的行為を行って不道徳的行為を控えるものに幸福が訪れ、道徳的行為を控えて不道徳的行為を行うものに禍が訪れるよう、人々は取り計らう。このことを人々は刑罰と報酬によって、あるいは、単に賞賛と非難によって、果たすことができる(159-60頁)。
 ミルによれば、われわれは道徳的習慣をつぎのような仕方で獲得する。すなわち、われわれの両親はある行為を称賛して別の行為を非難し、前者を行ったといってわれわれに報酬を与え、後者を行ったといってわれわれを処罰する。その結果、われわれは称賛の観念をある一連の行為に連合させ、非難の観念を別の一連の行為に連合させる。つまり、このように連合させることは、称賛に値する行為の観念と非難に値する行為の観念をもつことである。われわれは前者から出てくる通常の結果を欲して後者からの結果を避けるがゆえに、われわれはやがて道徳的行為を行う習慣を獲得し、そしてのちのちまで、行為の結果についてももう悩みそうもなくなる時期になってさえ、この慣習をもちつづけるのである(160-1頁)。

 政治権力もこの問題の延長線上に考えられて、このような相互の動機付けの手段として、調整の手段として絶対的な統治者の代わりに、民主制が選択されていくことになる。

他人の身体および財産を自分の快楽に役立てることができるほど大きな権力を望むというのが人間性の法則である、とミルは信じる。それゆえ、幸福への手段が非常に豊富に生産されたならば、すべての人が自分の労働の果実を最大限保有することが望ましい。ただし、このことは、すべての人が一緒になり自分たち全員を保護するために自分たちの中の少数者に権力を委任して、はじめて可能である。この保護的権力を行使するのが政府である。
 多数者は、少数者が多数者を保護するためにこの権力を用いることをどのようにしたら確実にできるのか。他人を自分の快楽に役立つよう利用するのを望むというのが人間性の法則であるのだから、統治者が保護すべき人々を逆に犠牲にして権力を乱用する危険がつねに存在する。この権力の乱用をいつも防止するただひとつの仕組みがある。その仕組みとは代議制である。代議制は統治者をして被統治者に対して責任を持たせる。なぜなら、社会のすべての構成員が統治することができないが、統治する人々を選ぶことはできるからである(167頁)。

 この父ミルの議論、個人が一定の行為を選択するようになるわけを、スミスのように個人内部のインパーシャル・スペクテイターに求める代わりに、社会内の具体的な他者に求めたものだと理解したら的外れだろうか?まあ、パノプティコン話があるわけですが、18c後半のブルジョアの世界ならまだかなり狭いものだったろうし、自分たちの行いを見ている人をかなり具体的に想定できてもおかしくないように思うのだが。ベンサムについてもこうまとめられている。「誰もが完全に利己的である。しかし、苦痛に満ちた経験によって、ほかのすべての人々に対し責任を負いすべての人々によって嫉妬深く監視されるならば、促進すると信用できる政府の存在を共有することを人は学ぶ、と」(133頁)。
 しかし、完全に19cの人であるジョン・スチュアート・ミルになると、民主主義を手放しで礼賛することができなくなる一方で、個々人の個性を尊重するという視点がより強固になっていく。

ミルによれば、すべての人間による統治とは、各人が各人によって統治されることではなくて、各人がほかの人々によって統治されることである。人々の意志とは、多数者の意志のことであり、この多数者は抑圧することを欲することもある。それゆえ、この種の専制に対しても、ほかの種類の専制と同様に、警戒が必要である。また政府による専制とは、まったく無関係なことであるが、世論の専制というものがある(197頁)。
 すなわち、文明社会では自分自身にだけ関係している自分の行為については、普通の成人は他人に責任を負うことはない。なぜなら、その人がそのような責任をもつことは、社会の真の利益とはならないからである(198頁)。彼の関心事は、不干渉を指示する立派な功利主義的根拠があることを示すことではなく、干渉が許される限度を決定することであった」(199頁)。ミルは高度に教養のある人間が社会にとって有益であることを実際に示そうとする。しかも、彼とはちがっって、個性がそれだけでは尊重に値することを知らない人のために、そのことを企てるのである(204頁)。

 自然法理論/社会契約論からカント、ヘーゲルへという系譜はいろんな本で読めるが、社会契約論からそれを強く批判した功利主義へと向かう流れを概観したような本ってないのかな。この本では、ホッブスやヒュームの他に、バーク、エルヴェシウス、ベッカーリアといったあたりが先駆者として挙げられてますが*1

イギリスの功利主義者たち―イギリス社会・政治・道徳思想史 (1974年)

イギリスの功利主義者たち―イギリス社会・政治・道徳思想史 (1974年)

*1:啓蒙思想からベッカーリアにつながる流れなら次の本のなかで確認されている。http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20090508