『未完のレーニン』

 前述の『神奈川大学評論』の対談で大澤真幸が誉めていたので、私もこの本を読んでみることにした。ちなみに、大澤は『朝日新聞』(12月6日朝刊)の「私の3点」でもこの本を挙げている。『情況』でもこの本がらみの特集がくまれたり、かなりの評判を呼んでいたのですね。知らなんだ。最近、世事にうとくていけない。で、読んでみたら、いかにも若書きだなーって感じではあったけど(当然ですよね)、面白かった。そもそも、レーニンの『何をなすべきか?』なんてとっくの昔に用済みなんだと思っていましたよ。
 で、フロイトを参照しながら読み解かれる『何をなすべきか?』はこんな感じということになるのかな。資本主義的体制の内側にいるかぎり、労働者は労働者であり、革命の主体になることはできない。それこそ、資本主義の内側にいるかぎりは、つまるところよりよい生活をという話を超えていくことは難しいだろう。

労働者が労働者であるということは資本主義的生産様式がもたらす階級構造の内部で労働者であるといことを意味するから、労働者が労働者として運動するということは、それがあくまで資本主義内部における運動にすぎないものに必然的にととまらざるをえず、その構造そのものを乗り越えることはできない(70-1頁)。プロレタリア階級から内発的に出てくるイデオロギーは、経済主義・自然発生主義、組合主義として、要するにプロレタリア階級に対する搾取の相対的緩和をめざすものとして現れる(71頁)。

 かといって昔を懐かしめばいいかといえばそういうものでもない。人民にたいする疚しさから人民と一体化し、資本主義以前の共同体に回帰しようとするナロードニキの同伴知識人的な言説もやはりそれと同じ平面にある。

すなわちそれは、それ自身が神経症的な言説であり、ゆえに「労働力の商品化」というプロレタリア階級そのものをつくり出したトラウマ的出来事に遡行して抑圧の原因を取り去る能力を持ちえない(110頁)。

 いってみれば問題は、個々の内容にではなく、その形式にある。資本主義体制という枠組み(形式)の内側で起こっている個々の現象(内容)が問題なのではなく、その枠組み(形式)そのものが問題なのだ。だから、革命家は労働者階級の外側に立たなければならない。革命家は、資本主義体制の忘却されたトラウマである「労働力の商品化」をプロレタリアに意識化させてやる必要がある。というわけで悪名高い「外部注入論」が読み直される。
 大澤真幸が注目するのはこの点で、前述の対談では次のように述べている。『何をなすべきか』を介して、現代で知識人がはたすべき役割があるとすれば、それがどのようなものかを再考しようとしているわけだ*1

レーニンが構想した党や知識人の役割は、この分析家と同じではないか。患者は、一人では、正しい解釈に到達できないのと同じように、プロレタリアートは、勝手に、自然に十全な階級意識を獲得することはない。真理を所有しているわけではない分析家が存在しているだけで、患者は、無意識の真理に到達できるわけですが、同じように、党や知識人がまさにいることで、プロレタリアート階級意識を獲得することができる(23頁)。

 後半の『国家と革命』の読解部分も簡単に紹介しておけば。ブルジョアとプロレタリアの対立は国家の媒介を受けることで、国家とプロレタリアの対立として現象する。プロレタリアは国家との敵対関係をとおして階級意識を醸成させる一方で、帝国主義段階では国家の媒介性はより希薄化しブルジョアが政治化する。ところで、公権力(特殊な力)の具体的な担い手(たとえば、軍隊)は、実際にはプロレタリアから構成されている。この公権力が革命的権力(普遍的な力)へと転化するとき、革命が始まる。

社会構造のなかで〈力〉が生じてくる唯一の本質的な発生源は、「階級対立の非和解性」つまり対立する階級の相反する斥力であり、その〈力〉から国家が生じ、階級対立から生じた〈力〉は国家の「特殊な力」へと転化した。レーニンが革命の瞬間として語っているのは、この「特殊な力」がその被媒介的性格を脱して直接的なものになることによって、「普遍的な力」へと転化するという運動である(185頁)。

 もっとも、前著との関連でプロレタリアは資本主義の内側でそれぞれがそれぞれの利害を追求することが確認されていたはずだ。この点はどうなる?「過渡的形態」としてのプロレタリア独裁がそれを説明する。つまり、プロレタリア独裁は国家の連続である一方、プロレタリアの連帯を実現するという意味で未来を先取りしているというわけである。そして、革命が成就した暁には、革命的権力の基礎にあった階級対立が解消される以上、この力そのものが消滅していく、と。

未完のレーニン 〈力〉の思想を読む (講談社選書メチエ)

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なにをなすべきか?―新訳 (国民文庫 (110))

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国家と革命 (ちくま学芸文庫)

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帝国主義論 (光文社古典新訳文庫)

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はじまりのレーニン (岩波現代文庫)

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*1:たとえば、憶測でものを言っていると断ったうえでだが、ファッションでも映画でも何でもよいのだけれど、市場の影響力が大きくなっていくとき、評論家や批評家が何をしているかというと、少なくとも大きなメディア上では、作品そのものを評価するというよりは、しばしばトレンドの先読みみたいなものが主流になっているような気がする。何が流行るか面白いかというのがまずあって、そのなかで辛口だとか言われてるんじゃないかな?もし、そう言えるのだとすると事態はレーニンのそれとよく似ていることになる。つまり、問題にされるのは症候(内容)の方であって、その枠組み(形式)を問題にしていくような作品を取り上げるのは難しい。でも、でもこうした趨勢は作品のクリエイティビティを押し下げる方向に働きそうだし、それは評論家・批評家自身にとっても、自らの役割を不要にしていくという点で、自殺行為に等しいんじゃないかと思う。だとすれば、形式の外側を示す他者としての批評家・評論家の役割は貴重だ。でも、実際にはどうやってそんなことができるというのだろうか?