中世的世界の形成

 というわけで、なんとか読了。前半は東大寺の庄園(荘園)をめぐってなぜこんな細々とした話につきあわされるのかと思ったのだが、読み進むうちにどんどん面白くなる。やはり、これは名著ですな。
 作人に土地を経営させる領主は土地所有権を持つのであり、相続人が分割するのも土地所有権である。したがって、相続人の対立は土地所有権の主張の対立として現れるが、それは証拠文書の争いとなり、偽書謀書が作られることにもなる(この辺は笠松本とリンクさせると面白そうですな)。こうして個人的所有の優位が、領主層における族的団結の解体傾向を押し進めることになる。他方で、武士団は、たとえ族的団結の延長であろうとも、個人対個人の主従関係関係を基礎とする。つまりは、封建的なヒエラルキーである。

以上によって武士団の成立過程がその本質において領主的族的結合を否定する方向を内在していたにかかわらず、領主権を成長せしめた諸特質が如何に保存されていたかが理解されると思う。一族の和合協力が最も強く規範として意識されると同時に、それを破る個人の主張がまた強く発露している初期武士団の仲には、所領紛争において倦むことなく個人の権利を主張して止まなかった領主が存在するのである(215頁)。
かくの如く初期武士団には往々集団の統一を破るほどの強い個人の独立性が特質であって、そのは後期武士団における惣領の所領単独相続と一族の家子郎党が完成された後は陰を次第に潜めてゆく性質のものである(216頁)。

  この辺に弁証法を読み込むことができるでしょうな。すなわち、族的団結とその矛盾を止揚するものとして武士団が形成される。そして、それが「遅れた中国」の同族組織と重ねられる東洋的古代からの離脱ということになる。「わが国の武士団は、前期の如く在地領主の族的結合の軍事組織として発生したが、この場合規定的意味を持つのはそれが領主階級の独自の軍事組織であったことである」(227頁)。
 「階級の分化は同時に生活圏の拡大として現れる」(236頁)。他方、東大寺は「預所」を設置し高位の僧侶を派遣して、直接統治に乗り出す。これは、国衙や在地武士、さらには近隣の荘園領主を意識してのことである(不入の制の確立)。しかし、これは見方を変えれば「中世以前には、われわれは寺家の権威と統治を支える力を、庄民自体の狭隘な社会関係と生活形式のなかに求めることができた。中世においてもその面は以前無視できないことは、悪党の結末のなかにも見いだせるところではあるが、しかし政治の基礎をそれだけの信頼の上に築くことは種々なる庄民の現実がもはや許さなくなっていたのである」(263頁)。つまりは、古代政治と中世政治の対立が、中央集権的傾向と地方分権的傾向の対立として現象する。ここも弁証法

中央集権的形態はそのための社会的条件の欠如、すなわち地方における社会的分業(=階級分化)の未発達を前提とし、特定の政治的関係を基礎とするから、地方における社会関係の成長はただちにその統治の危機とならざるを得ない。地方社会における階級分化の結果として成立してくる領主層が、政治の主体となるためには、古代的中央集権の組織の否定として、すなわあち古代都市の否定として正答する以外に道はないのである(292頁)。

 さらには、「大仏の奴碑」として庄民のなかから「神人」を定置して、庄民の分断統治を図ることになるが、東大寺は結局荘園内部を統治する組織を持ち得なかった。この神人の定置は、いわば古代的な人的身分的隷属関係の残滓を中世的な方向へ成長し始めた庄民のなかに放り込むことにより、古代回帰をはかる一種の反動である。他方、興福寺では権力の所在が寺領に住居する下級僧侶「衆徒国民」に移っていく。
 というわけで、中世的世界の形成過程は律令制の遺制である庄園については、古代的なものと鋭い対立を示したのに対し、貴族社会的な精神的文化的遺産は同化、受容される方向で進行する(鎌倉時代あるいは室町時代)が藤原摂関家の政所政治の踏襲であり、上級武士が貴族化していくのはこれを見ると分かりやすい)。また、国衙の法は在地私領主の共同組織の法となることで生き延びていく。これは「道理」と呼ばれるが、「武家法の道理の思想は、その成立をまず農村の歴史に求めなければならない」(326頁)。このとき「法はもはや神意ではなくして、人間の形成した人間社会の規範として理解されているのである」(328頁)。
 中世の開始としては、律令制的身分秩序と貴族の氏族的結合の支柱の上になりたった平安前期のから律令制国家の崩壊と藤原氏専制の確立した延喜以降がメルクマールとされる*1。藤原専制以降、貴族は都市貴族に転化し、国家観念を喪失していく。それに伴う浄土信仰の流行や物語文学の登場、中国文化からの解放。そこでこう言われることになる。

貞永式目』と『平家物語』と『歎異抄』は日本の中世的世界を支えている三本の柱である。そこに共通しているものは国民の発見であり、国民との生き生きとした連関である。しかしこのこおてゃ中世が、庶民的になったということを意味するものではない(359頁)。

 話を東大寺に戻せば不入制の確立は悪党をうむ。寺家の弾圧に対抗する悪党は在地武士団であり、そこには御家人も非御家人も含まれていた。東大寺が自力で悪党を制圧しがたくなったとき、六波羅に悪党鎮圧を依頼し、守護代御家人を率いて鎮圧を図るのだが、彼らは命令を忠実に履行しなかった。つまり、御家人としての統率者としての守護の基礎も崩壊している。鎌倉幕府においてはこのように在地の封建体制未熟であったから、在地の非御家人も含めた封建制が成長してくればその弱点を露呈させることになる。このように台頭してきた地侍層を統治するには、「中央集権的組織ではなく、地方的一国的な体制でなければならない」(409頁)。これらを直接全体的に組織しうるのは守護であった。つまり「ここに守護制の質的な転換が必須となって来る」と(410頁)。ここにも弁証法的な関係があり、この矛盾を止揚するものとして室町時代があると。
 というわけで、後半、面白かった。この本、いまでは一体どういう評価を受けているのかな。

中世的世界の形成 (岩波文庫)

中世的世界の形成 (岩波文庫)

 

*1:この「延喜以後」という切り方は評価の仕方がまったく異なるとはいえ『日本倫理思想史』の和辻の発想にとても近い。読んでた可能性は高いだろうな