立川談春独演会:『鼠穴』

 また行ってしまった。次は、大阪、それもフェスティバルホールで「芝浜」やるってんだけど、どうしよう?今日、演ったのは「厩家事」に「鼠穴」。話のとりあわせとしてもよかったんじゃないか。まず、「厩火事」で、惚れる女も女ならそれにつけこむ男も男だと、談志言うところの「人間の業」を軽くなぞって笑わせてもらったところで、「鼠穴」でそれを深くえぐりとる。「鼠穴」の落ちては上がり落ちては上がりを繰り返す展開、何遍聞いてもスゴイと思う。今日もよかった。
 この話の凄いところはここまでやるかという「人間の業」の深さをさらけだしてみせながらも、それをうまく夢としてさらってみせるところにあると思うのだが(しかし、この夢、どういう風に解釈できるんだろう?)、その凄味は、単に「兄貴の因業」な仕打ちにあるわけじゃあるまい。いくら親兄弟でも、金あるいはそれに類する話になれば別というのは、まあ現実にもありえない話じゃない。それだけじゃあ、ここまで話に凄味がでないと思う。
 相手が金で切れるだけの野郎なら、それが親兄弟であろうと赤の他人であろうと同じこと。そもそもその程度のヤツだったってことで話は終わってしまう。軽蔑には値しても、恨むにも値しない。むしろ、業の深さは、それと相容れない情(あるいは信)の深さと裏腹になるところで、凄味を発揮するというべきではないだろうか?
 無一文になった弟が、商売で成功している兄に金を無心する。兄はたった三文の金しか貸さない。その悔しさをバネに奮起した弟は身代を築きあげ、兄貴を見返してやろうと三文を返しに行く。すると、兄貴は遡及的にこんな弁解をする。あのとき、オマエはやりなおしたいと頭を下げるが、まだその性根は変わっちゃいないのはみえみえ(これも業の深さだが)、おれはどうすればいいかわからなくて三文貸した、と。
 一見もっともに聞こえるこの弁明、後からどうとでも言い訳がつくものだから、次ぎに夢として繰り返される業の深い仕打ちの余地を残しているとも言えるが、それ以上に、この弁明は情と欲得を並存させているとも言える。より重たいのは多分こっちの方だ。「こんな弟に金を貸してもしょうがない。どうしたものか」というのは、実際に弟を思う兄の気持ちでもあろうし、コイツに金を出す価値があるかという商売人の値踏みでもあろう。つまり、ここでは情と欲得が同居しているのだ*1。だからこそ、後からどうとでも言えるだけの信憑性も残る。
 だが、夢の中で、倉に鼠穴があるから火事が怖いという不安が的中して、弟の身代は丸焼けになり、にっちもさっちもいかなくなった挙げ句、兄貴にふたたび金の無心をするとき、もはや弟にやり直す可能性は残されていない。つまり、兄にしてみれば、ここでは情と欲得が完全に食い違っているのである。そして、ここで兄貴は迷うことなく、欲得を選ぶ。だからこそ、その仕打ちは激しい。しかも、弟は娘を吉原に売って得た50両をあっというまにすられてしまい、さらに追い打ちをかけられる。で、クビをつろうとして目が覚める。それは夢だったと。
 たしかに、あれは夢だった。だが、もしあれが夢ではなくホントに起こった火事だったらいったい兄貴はどうしんだろう?やっぱり、兄貴は迷うことなく欲得を選んだんじゃないだろうか?ここで「よかったよかった」となるのは、自分が受けた仕打ちが夢だったからなのか、それとも、ことと次第によっては兄貴が情よりも欲得を選んだかもしれないという「業の深さ」を見ずにすんだことにあるのか?おそらく、この噺の凄味はこの二つの可能性を併存させたまま話を終えてしまうところにある*2。情(あるいは信)と紙一重にある欲得、つまりは「人間の業」の深さ、それを今日の談春はえぐってみせたんだと思う。こうなると、「芝浜」も見たくなるよな。

赤めだか

赤めだか

*1:また、この内訳話の流れのなかでこの兄が独り者であることが何気なく明かされるのだが、なぜ独り者なんだろう?中入り前に「厩火事」で「モロコシ」と「麹町のサル」の話を聞いていると、コイツはやっぱり「麹町のサル」なんじゃないかと疑念がよぎるのだ。

*2:最近、書いてきた話にひきつければ、かろうじて世界から疎外されることなく生きてこられた人間が、紙一重の差で向こう側に落ちずに済んだ話だとでも言おうか。そして、この綱渡りは、もしかしたら、誰にでもあてはまることなのかもしれない。