歩いても、歩いても

 階段のあるロケ地が実家の近くだったりするし、手すりのついた風呂や壊れたタイルとかを見ていると、そこで描かれている情景がふと自分に重なってくる。主人公は「良多」というのだが、失業中の絵画修復士で実家へ戻ってきても、うまくいかない自分の再就職の話ばかり気にして、なかなか他のことに気が回らない(家族を一枚の絵と考えてみよう)。
 見ているうちに分かってくるのは、医者である父の跡継ぎとして将来を嘱望された長男「純平」が、海でおぼれかけた子どもを助けようとして死んだこと。この日がその命日で、それで次男や長女が集まってくること。長男の死は家族のなかで大きな欠落としてあり、それがまた、父と次男とのいさかい、母と次男あるいは長女とのやりとりに影を落としていること。だから、死んだ兄は、家族を集わせ結びつける絆ともなっているのだが、また、それが親子のあいだにどうしようもなく孕まれてくる齟齬の源泉にもなる。いわば、家を出た子どもと親がそれぞれ別の人生を歩むあいだに産み落としてしまうそれぞれの思いの結晶が、この死んだ兄だと言ってもよいだろう。死んだ兄とは「死んだ家族」という「亡霊」のことに他なるまい。
 長女は一緒に住もうというのだが、母は何だかんだ言ってそれを拒み続けている。そして、墓参りの帰りに良多に言う。「オマエが戻ってこれなくなるから」と。だが、その言葉に影を落としているのは亡くなった兄のことだ。このとき見かけた黄色のモンシロチョウが、夜になって家に舞い込んできて、それを見つけた母は純平かもしれないと、それをおいかけ呆けてしまったかのように我を忘れる。
 子どもたちが帰ってくると、喜ばれているかどうかも分からない手料理に腕をふるうのは母で、父に居場所はないのだが、ちょっとした瞬間に垣間見せる母の姿を見ていると、死んだ兄への思いを断てずにいるのは、父以上に母なのではないかと思えてくる。兄が自分の命を引き換えに助けた、元少年が焼香にやってくるのだが、父は「あんなヤツを助けるために」死んだのかと嘆いては良多と口論になるのだが、母の方は「いつまでも招き続けるぶのは酷じゃないか」という良多に「10年くらいで忘れてもらっちゃこまるから来てもらうんだよ」と軽く応える。
 良多の妻は連れ子で再婚、当然、母には面白くない(もっとも、母にとって面白い息子の結婚なんてあるのだろうか?)。良多には「子どもを作ると別れにくくなる」とか言っている。そればかりか、「あなたのお母さんは、あなたに寝間着を用意していても、自分には何も用意してくれない」と愚痴る彼女に、良多の母はあとから自分の着物をプレゼントするのだが、そのとき最後に「子どもは作らない方がいいわね」とぼそっという。妻の表情がこわばる。
 あるいは、父のレコード・コレクションが話題になった時、話は母の懐かしい曲へと流れて「ブルーライト・ヨコハマ」がかかることになる。それは、かつて板橋に住んでいた時分に父が浮気していた頃よく流れていた曲だ。父と二人ときりになったところで、母は何気なくそんなことをつぶやく。それも今ごろになって。その乾いた調子が、あの淡々と歌ういしだあゆみの声と妙にはまる。
 むかしのことを執念深くずっと覚えていて、しかも、普段そんな素振りは何も見せないまま、ふとした瞬間にさりげなくそれを垣間見せる。この母、こわい。そんな感じで家族に尽くして生きてきた。それが「歩いても、歩いても」なわけだ(これは「ブルーライト・ヨコハマ」に出てくる歌詞)。
 そんな母や父に良多が気に掛けてやれるのはちょっとしたことだけ。翌日、良多一家は帰り、父と母は次は「正月だな」と言い、良多と妻は「正月はいいか」と言う。母には自分の運転する車にのせてやると言い、父には連れ子と一緒にサッカーを見に行こうと約束しながら、それが果たされないまま、父が死に母も死ぬ。
 たまに、実家に帰ると家族っていつか終わるものなんだなと感じる。そこで交わされる言葉は、もうかつてのような重みを持たない。というより、お互いがその言葉を重く受けとめあえるほど、もはやその交わりは深くない。お互い別の人生をおくるしかないのだから。となれば、その深さは記憶へと遡る他はない。そして、かつての母親とはそんな家族に尽くすことで自分の一生を捧げた存在だ。だからこそ、その思いもまた一層深い。