『サッド・ヴァケイション』

 アタマが回らず、ついついぼーっとしてしまう金曜日は、午前中に映画を見て、午後はお昼寝する。で、夕方から一仕事。というわけで、青山真治の『サッド・ヴァケイション』(伏見ミリオン座)。
 健次は、中国人の密航斡旋に関与しているのだが、渡海途中で父親をなくした中国人の子どもアチュンを引き取る。そんなわけで、やはり引き取って一緒に暮らしていた自殺した友人安男の妹で知的障害のあるユリとアチュンの3人の共同生活が始まる。だが、中国人マフィアににらまれて、ユリを施設にあずけ、代行運転手を始め、冴子と知りあう。
 代行運転を続けるなか、自分を棄てた母がたまたま乗せた客の妻におさまっていることを知る。このオヤジは間宮運送という運送会社を営んでおり、借金で首がまわらなくなったりして居場所のない者を雇って働かせている。復讐を誓ってその母を訪ね、間宮運送で働き一緒に暮らすことになる。やはり母に棄てられた梢と交わす言葉。「どうすれば、復讐になるんだろう?」。
 母親が健次を受け入れようとすればするほど、オヤジとのあいだにできた異父弟はぐれはじめる。そんななか、アチュンは中国人マフィアに誘拐され、健次は安男の亡霊を見る。健次にそそのかされた弟は、ユリを強姦して(またあずけられた施設の女医が”妊婦”になっていて、やってきた健次に「大丈夫?」と説教するのだ)、再度の家出。その挙げ句、健次を殺そうとして、逆にあやまって殺され、健次は収監される。でも、母は、その健次を待とうと冴子とユリをひきとり、刑務所に面会にいく。
 橋のたもとにある間宮運送はモノを流す「仲介」業であり、流れ者が流れ着く居場所である。他方、健次は、密航斡旋・代行運手をしてきた、やはり人のあいだにはいる「仲介」業で生き、アチュンやユリを引き取っている。間宮運送のオヤジと健次は同じ行き場のない者を引き受けるポジションにあり、かつまた、間宮運送は健次が流れていく場所でもある。つまり、健次は間宮運送を継ぐポジションにある。
 しかし、この映画が面白いのは、これだけでは終わらないところ。間宮運送を継ぐとはまた母が望むところでもある。その母が拠ってたつのは血の原理であり、そのかぎりにおいて母はすべてを包摂する。息子が殺されても、健次がいて、その子がいるなら、健次は許されてしまう。冴子を引き取るのは、冴子が健次の子を妊娠しているからであり、ユリを養子にするのは、ユリが、健次の父親と安男の母とのあいだにできた健次の異母妹だからである。この二人はいわば人質で、二人がいるかぎり健次は間宮運送にもどらざるを得ないだろう。でも、このとき待ち受けているのは流れる間宮運送というよりは、ちっとも流れそうにない家族だ。
 自分がいくべき場所があるのだが、自分がその場所へ行くことはまた唾棄すべき母親が望むことでもある。いわば、健次はダブル・バインドに置かれてしまうわけだ。といっても、それは深刻というよりどこかコミカルだ。まあ、現実にも笑うよりほかはないよね*1
 学生の相手をしていてしばしば、諸悪の根元は母親だと思うことがある。それで、寺山修司ばりに「母を殺せ」とか言ってみるのだが、ホントに殺すわけにもいかないし、どうやったってつきまとってくるし。わたし自身もしばしば困ってますよ。抹消しようのない母なるもの。どうすれば、いいんでしょう?いやホントにね。

*1:この本の182頁前後に出てくる青山真治によるスピルバーグについての発言は考えようによっては意味深かもしれない。

シネマの記憶喪失

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