フェリーニ、フェリーニ

甘い生活』(1959)

I Love Fellineと言いつつ、『甘い生活』を見るのは二度目。改めて見ると、前回は随分と大まかに見ていたものだと思う(また見ればきっと同じように思うに違いないが)。フェリーニの映画には不思議な明るさがあって、というかそもそも映像が楽しいので、この映画の主題(と思われるもの)の重さを軽くみていたようだ。この「甘い生活」ってある意味じゃちっとも「甘く」ない。
 この作品は基本的に二項対立で作られていて、それはニーチェが『悲劇の誕生』で示したアポロとディオニソスの二項対立に類比できるようなものだ。主人公演じるマルチェロは、作家志望のジャーナリストで、冒頭、ヘリコプターで移送されるキリスト像を取材で追いかけているのだが、途中女たちの姿を見つけて寄り道する。次のシークエンスは、インド舞踏みたいな映像から始まるのだが、それはマルチェロがゴシップ記事の取材をしている場面だ。その流れで金持ち女(アヌーク・エーメ)と情事を重ね、戻れば同棲している彼女が自殺を図っている。マルチェロは彼女を愛していないわけではないのだが、過剰に愛されることを求める彼女にある種のやりきれなさを覚えている。さらに、マルチェロは取材中にたまたま友人と出会い、二人で教会に入る。マルチェロとは違い抑制した生活をおくる友人は、マルチェロに才能があるんだから文学の方に向かうことをすすめ、そこでパイプ・オルガンを弾く。
 こんな感じで、ジャーナリストでありながら、取材ネタと同じような生活を送っている、つまりはカソリックの禁欲と東洋的快楽の間にはさまれながらどうしても後者に傾いていく主人公という図式が反復される。そして、アニタ・エグバーグ扮するハリウッド女優の取材では、アヌーク・エーメとの情事のときと同じようにドライブに出かけるのだが、そこで目にする彼女の自由奔放な姿、とりわけ噴水の泉に入った姿は、何かすべてから解放された美しさを彼に差し向けているように見える。それは、東洋的な快楽の世界の果てに聖母マリアを見たとでも言えばよいのだろうか?夢中で彼女のもとにかけよるマルチェロだが、すると噴水の水が止まってしまい目前にあったはずの彼女の姿は幻のように消えてしまう*1。つまり、二つの間の調和、あるいはその先の救済なんかない。
 件の友人宅のパーティに招かれる。子どももいて静かな生活を送っている様子なのだが、パーティではインド風の音楽が流れセックスの話題も出てくる。あららと思いつつ見ていたら、そこで、友人が録音したという風や波の自然音を聞くことになる(これがラストで効いてくる)。彼の生活に憧れるマルチェロはまた訪れてもよいかと尋ねもちろんと友人は受け入れる。だが、そのときの友人はちょっと不安げだった。そして、マルチェロは普段の人間関係から離れたところで、小説を書き始めてみるのだが、すぐに投げ出してしまう。彼女とはうまくいかない。父と久々に再会するのだが、放蕩した末に身体を悪くしている父の姿は、自らの末路を映しだす鏡のようだ。そんななか、件の友人が子どもたちを道連れに自殺したことを知る。マルチェロのあこがれる友人が、その静かで抑制された生活とは裏腹に、その道をまっとうできずに苦悩していたことが露見するわけだ。ここでも救済の道は閉ざされる。
 その後のマルチェロは放蕩の生活になだれ込む。貴族の城に乗り込み、あるいは、友人の離婚のパーティでバカ騒ぎする。その最後の場面で海辺でエイの死骸を見る。放蕩仲間のなかにはそれが美しいという者もいる。なぜエイなのかはよくわからないところもあるが、その化け物のような姿はマルチェロが望みながらも果たすことができない精神あるいは肉体のなれの果て、その象徴的な死を暗示するのだろう。そんな、マルチェロに川向こうから少女が話しかけてくる。マルチェロが小説を書いていたカフェにいた少女で、そのときのことで話しかけているのだ。だが、海と風の自然音にかき消されてその声は聞こえない。つまり、ありえたかもしれないかつてのもう一つの自分の姿を見て取ることができなくなっているのだ。
 この映画が撮られたのが1959年。イタリアにおけるカソリックの意味の重さの一方で、「甘い生活」を生きなければならない断念みたいなものが、それこそポストモダンの到来以前に描かれていたように思えて仕方がなかった。だから、この「甘い生活」はちっとも「甘く」ない。ちなみにニコがまさにニコとして出演している*2

『8・1/2』(1963)

 アサニシマサ、こっちを見るのは何度目だろうか?ただ『甘い生活』と間をおかずに見るのは初めてで、今ごろになって主題が連続していることに気づいた。正確には、連続しているというより、同じ主題を撮り直しながら違った結論を与えようとしているように見える。マルチェロを取り巻く女性たちもほとんど同じ顔ぶれだ。ご存じの方はご存じのようにストーリーは説明のしようがないので、主題その他の反復が確認できるポイントをいくつか指摘してみよう。
 最初のシークエンスはグイドことマルチェロが車のなかで苦しみもがいていたのを何とか外に抜け出して、空に飛び立つと、それを神父みたいな人々が引きずり下ろすというところから始まる。グイドはスランプに陥っている映画監督で、温泉地に休養に来ている。いい加減制作にとりかからなければならないわけだが、ちっとも進まないし、保養に来たたのに、仕事のなかまに取り囲まれちっとも休めない。
 その一方で、その温泉地に愛人を呼んでしまっている。迎えに行ったら、神父たちは降りてきたのに彼女の姿が見えず、来ないのかと「ほっ」としたら列車の反対側に降りていた。というわけで、ここでも二項対立が反復されている。そのうえ、グイドは、この地で「実際にも」そして「構想している映画」でも枢機卿と会う。他方で、妻が自分を理解してハーレムをつくりあげたシーンが挿入されている。
 浮気を隠すグイドと妻との関係はうまくいっておらず、これも「甘い生活」の恋人との関係と同じ。そのうえ、『甘い生活』では滑走路みたいでスペイシーな雰囲気の漂うライトに照らされた路上で決定的にもめるのだが、『8・1/2』でも、映画に使うセットの宇宙船を見に行くところでそれまでご機嫌だった妻が急に不機嫌になる。宇宙船は当然男根のメタファーだろうし、そこでもめることは、冒頭のやっと飛んだら足を引っ張られるシーンに重なるだろう。貞淑たろうとする妻は「甘い生活」に踏み出すグイドの足を引っ張る存在なのだ。
 他方、グイドが作るはずの映画内映画では主人公に泉の水を差し出す処女の役としてクラウディア・カルディナーレが予定されており(泉の水は純粋さを表すものだろう)、彼女が到来するとグイドは、アニタと同様、ドライブに出かける。そして、行き着いた先で「君の役」はないと打ちあける。つまり、ここでも二兎を追う先に救済など存在しないことがよりはっきりとした形で明言されている。
 そんなわけだから、映画はできっこない。そのどたばたから、有名なラストシーン「人生は祭りだ。一緒に愉しもう」になだれ込む。前作では「甘い生活」を選ばざるをえなかったとすれば、ここでは混乱こそが自分自身だとすべてを受け入れる方向へ変化している。でも、その一見明るい結末はある種の寂しさを漂わせてもいる。グイドと妻の間で「これがボクだ。受け入れてくれ」「やってみるわ」という「会話」シーンが挿入されるわけだが、それは実際の会話ではなく、二人の映像にあてられたセリフにすぎず、そのやりとりが何処で生じているのかはわからない(グイドの頭のなか?)。そして、このカーニバルの楽隊のメンバーの一人、おそらくは少年時代のグイドが最後に一人残ってこの映画は終わる。そうだろう。この結末ははすべてが終わった世界の一面の真理をついているようにも見える一方、ただの男の身勝手のようにも見えるのだから。
 という風に見てくると、この二つの作品はよく似ている。しばしば、『8・1/2』は自伝的な作品と言われるが、もしそうならば『甘い生活』だって十分自伝的というか、同時代のイタリアとそれを生きなければならなかったフェリーニの葛藤が主題化されていると言ったっていいはずだ。ちなみに、1965年には『魂のジュリエッタ』という夫の浮気に苦しむ妻を主人公にした作品を発表していて、その妻の役をフェリーニの妻であるジュリエッタ・マシーナに主演させている。そうなると、『魂のジュリエッタ』は『甘い生活』や『8・1/2』の裏版ということになる。そして、そのジュリエッタは最後に象徴的な意味で家を「出る」。

8 1/2 愛蔵版 [DVD]

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甘い生活 デジタルリマスター版 [DVD]

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*1:このあたりを見ながらボクはヒッチコックの『めまい』(1958)を思い出していた。あの映画のなかでも、自分の幻想のなかにしか存在しえない女を、幻想の女を演じていたキム・ノヴァクのなかに取り戻そうとして、ホテルの一室で一瞬だけ彼女にその幻の女の姿を認める。また、その幻の女との邂逅は塔に登る(登れない)ことに始まるのだが、『甘い生活』でも二人は塔に登っている。それから、キム・ノヴァクも水のなかに飛び込む。

*2:それと、パパラッチの語源がこの映画から来ているのはご存じか?