東京から戻って夜の映画館へ直行。@名古屋シネマテーク。評判通りの傑作。サイコーにオススメ。これがブルーズでしょう。
この映画が素晴らしいのは、(もちろん、それだけではないが)凡百の癒し映画とは違って、ある意味では、決して誰も癒されることはなく、また救済されもしないことだ。牧師がセックス依存症の娘レイに言う。「ここだけの話だが、死んでから行く天国なんてどうでもいい。自分にとって大切なのは神に祈ることであり、いまここでの天国だ。君の天国はなんだい?」。でも、いまここの天国がもたらす救済とは、抜け出すことのできない業と裏腹の束の間の救済だ。
ラザラスは、弟とできた妻に捨てられ、しまい込んだギターをもう一度取り出す*1。そんなある日、ラザラスは行き倒れの娘レイを見かける。彼女は、幼年時代に母が連れ込んでいた男から受けた性的虐待のせいでセックス依存症。唯一の救いはボーイフレンドのロニーなのだが、彼は出征してしまった。彼女を治すのが自分の天命なのだと思いこんだラザルスは、レイの腰に鎖を巻き半監禁状態で「治療」を始める。この病的な邂逅が他者の受容を真にせまったものにする。
そんなラザルスが彼女の鎖をはずすのが、レイが先ほどの牧師の言葉を聞いた後、牧師父子とラザラス、レイの4人で食事をしたあとだ。「こんなことをしたってしょうがない」と。いやー、これがスゴい。それは、業を抱えながらも自由に生きようとする人間の肯定だ。たとえ鎖につないだところで業にひたされたこの身は変わらない。だが、鎖にしばられた己の姿は、業を抱え込んで生きる己自身を映し出しているだろう。この鏡に映った自分、つまりは、業を抱えて生きる自分を肯定するとき、この鎖がはずされる。だから、その晩、ラザラスはレイにブルーズを歌うのだ。「ブラック・スネーク・モーン」。ブルーズもまた祈りであり、業を抱えて生きる者に束の間のやすらぎをもたらす。
翌日、レイは、自分の虐待を見て見ぬ振りをした母との和解をもくろむのだが、かえって母は淫乱な娘をののしり、自分が娘にした仕打ち(業)を認めようとはしない。レイの救済の希望はうち砕かれ、いつまでも、トラウマという名の業はついてまわる。その晩、ラザラスはレイをつれてバーへいき、久々に人前でブルーズを歌う。ブルーズにひたりながら踊るレイの姿は、解放されているようでもあり、また、業にひたされているようでもある(このアンビヴァレンスを見せるところがたまらない)。
さらに翌日、レイは、不安症で除隊になったロニーと再会を果たす。だが、レイはトラウマから逃れることができず、それはロニーも同様だ。ラザラスはそんな二人の立会人となって二人を結ばせる。この場面で、レイに鎖を暗示させるアクセサリーを腰に巻くのが象徴的だ。結婚して町を出た二人だが、相変わらずロニーは不安症、レイはトラウマで下半身がうずく。
そう、なにも変わってはいない。ただ違うのは、自分の苦しみを知る隣人がいること。だから、この身は変わらずとも、業という鎖をにぎったまま生きていける。自分の痛みを知る隣人とは、神のようなものであり、いわばそこにいまここの天国がある。
別にこれって映画上の話ばかりじゃない。働いていれば、上司の違法まがいのやばい仕事の片棒をかつがされ、いざそれが露見したら全部その責任を自分が負わされて泣きを見るなんて思いをしてる人は少なくないはずだ(そういうときは、必ず証拠をとっておきましょうね)。きっと世の中そんなことだらけだよ。ただ、そんな自分の痛みに気づいてくれている隣人がいて、束の間のやすらぎを与えてくれる歌がある。考えてみれば、アキ・カウリスマキの新作『街のあかり』もそんな話だったっな(そして、この映画のなかでなぜか「ボルベール」(帰郷)が流れるのだ)。
サミュエル・L・ジャクソンがこんなに歌えるなんて思わなかったし、しかも、サン・ハウスがブルーズとは何かまで語る。これがブルーズでしょう。
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