「鉄人28号 白昼の残月」

 というわけで、『鉄人28号 白昼の残月』を見てきた。少し年代がずれているので、子どもの頃に「鉄人28号」を見た記憶はほとんど残っていないのだが、それでも懐かしさに浸された。客も少なく、おじさんばっかり。とはいっても、懐かしさはキャラクターだけのことではない。

 鉄人28号は、戦時に敷島博士が開発したロボット兵器なのだが、それを戦後生まれの少年探偵・金田正太郎が操縦して悪と戦うという構図は、様々な意味を呼び起こしてしまう。まず、鉄人が暗示するのは、操縦者次第で善にも悪にもなることからすれば、未だ疑問視されざる科学の中立性であり、科学信仰であるし、開発の経緯をふまえるなら、戦時と戦後の連続性だ。そして、この両義的な鉄人を操ってアカルイミライを構想するのが戦後生まれの正太郎なのである。

 しかも、本作では、両義性を抱えているのは鉄人ばかりではない。正太郎には戦地で行方不明になっていた義理の兄正太郎がいたという設定になっており、その兄正太郎は、戦時下にあって父金田博士から戦闘目的で鉄人の操縦法を仕込まれたときている。また、父は、鉄人のほかに、本土最終決戦のために開発した最終兵器廃墟弾(とさらに巨大な鉄人)を地下に残していたことが明らかになる。二人の正太郎と二つの鉄人。

 敵と戦うことを使命に生きてきた兄正太郎は、戦後の日本にあって生きる目的を見いだせず、心に闇(廃墟)を抱えている。兄正太郎は父の遺言を受けて、これまた戦後無用の長物と化した廃墟弾を撤去する使命を帯びているのだが、そんな次第で国際的な犯罪組織PX団とひそかにむすんでしまっている。結末は、お決まりの改心と贖罪のための死なのだが、この正太郎と兄正太郎のセットは、日本国憲法と安保のセットみたいにも見える。

 もちろん、本作のモチーフをただちに原作につなげてしまうのは問題ありだろうが、いま原作をみればボクはきっと同様のモチーフを読みとってしまうだろう。なんだか原作の構図それ自体が、現在を生きるわれわれに問いを差し出してしまいそうな感じがするのだ。本作にしても、鉄人と正太郎の関係を二人の正太郎、あるいは二つの鉄人に投影することで、原作の構図をさらに作品内で具象化させているのではないかと思う。正太郎は鉄人とどうやって生きていけばいいのか?ただのアニメなのにね。