いまなぜ精神分析なのか

 はいまいちわからないけれど、精神分析がおちぶれていく現状にあらがいたくなる事情とそこまでにいたる精神分析の流れがよく分かる。非常に簡潔だが、フロイト、対象関係論、ラカン派、コフートの位置関係もわかりやすい。でも、アンナ・フロイトエリクソンが黙殺されてるな。当たり前か。
 最初に確認されるのは、またぞろの話の異なる物言いではあるが。

現在の精神薬理学的な処方箋を規定しているのも、こころの苦痛と関わりのあるいろいろな行動を規定しているのも、それは主体がいない、ということです(16頁)。

 そして、現代を代表しつつあると言ってもいいうつ病はこんな感じ。

うつは、神経症でも精神病でもないメランコリーでもない、「過労」や「欠損」、あるいは「人格の衰弱」の点から考えられた「状態」を指す、はっきりしない存在なのです。このような呼び名がどんどんと受け入れられていったことじたい、二十世紀末の民主主義が、主体形成の核心としての葛藤を特別視することをやめてしまったことをよくあらわしています。言いかえれば、フロイトのいう無意識の主題、自分の自由を意識しているけれだ、そのかわり生と死と近視につきまとわれてしまった主体という概念に取ってかわったのが、より心理学的なうつの個人だということです。この個人は、自分の無意識から逃げ出し、そして自分のなかにある葛藤の本質を消し去ることばかり気に掛けているのです(22-3頁)。

もっとも、これって、あらゆる癒し話や精神性に流れそうな話につきまといそうなトピックであるな。そんななか、精神分析家よりも臨床心理士が台頭する。

精神構造が問題となるときは、さまざまな症状をひとつの病気に当てはめてしまうことはありません。そもそも病気は(身体的な意味においての)病気ではなくて、ある一つの状態です。その治癒もまた、主体が実存的に変化することにほかならないのです(66頁)。

いまなぜ精神分析なのか―抑うつ社会のなかで

いまなぜ精神分析なのか―抑うつ社会のなかで