最初期のゴッフマン

この連休に単行本に収録されなかった初期のゴッフマンの論文や書評を読み返してみた。あらためて確認できたことには、相互行為論的な視点は弱いが、その後の議論の基本的な図式はおおよそこの時点で出ていると見てかまわない。とりわけ、Psychiatryに掲載された第二論文と長めの書評ではそれがはっきりしており、その後も用いられる体面や関与、当惑といった用語がすでに確認できる*1。詳細はおくとして、そこで問題にされているのは、自分がそれまでの自分ではいられなくなったとき、つまり体面(face)を保てなくなったとき、どんなことが起こるか、また、どうすればよいかということである。
第二論文の方では、この点を考えるためにconをモデルにしているが*2、扱っているのはconに限定されないより一般的な社会的場面である。詐欺にひっかかったり、あるいは(横領から精神疾患にいたるまで)社会的に失敗して、それまで自分が関与してきた社会的地位や役割を維持できなくなったときにどういうことが起こるのか。もっとも、役割を地位を失うにもいくつかのパターンがあり、ここで主題的に扱われているのは、自分が非自発的に地位や役割を奪われる場合で、かつその理由が当の個人に帰属されない場合である。
自分がある役割や地位を担っていることは、ある人物の属性であり、しかも、そこに一定の期間関与してきたわけだから、それは自分の一部に、つまり、自己の一つになっている。だから、役割や地位を失うことは、個人の体面にかかわり、その人物の自己の一つを壊すこと、死に至らしめることになる。
そこで、個人を新しい状況にどう適応させるか、また、こうした事態を避けるためにどのような予防線を張っておけばよいか、それぞれ、本人と周囲の人びとの選択について類型的に検討される*3。前者は、個人が新しい自己に適応していく過程が問題になるという意味で、『アサイラム』や『スティグマ』につながる*4。後者は、先々、想定される事態を予想して個人の行動に制約をかけることから、ゴッフマンのイメージにしばしばつきまとう戦略的に振る舞う自己に結びつく。書評論文では、体面を守り、信頼を失わないようにするために隠さなければならないことがあるといった話も出てくる。
しかし、他方で、ある人物から何らかの地位や役割を奪うということは、その役割や地位を当てにして行動を組織してきた周囲の人たちにも関わる問題である。だから、個人を新しい状況にどう適応させるかという課題が生まれるわけだし、こうした課題を前に自他ともに当惑や共感のようなある種の感情に浸される。これは、相互行為儀礼あたりの線で問題になる話である。
また、もう少し、抽象的な話をすると、ここでは個人が一定の状況下でなんらかの行為に踏み出す必要が生じ、そこで個人はどんな感情やもくろみを抱くようになるかという順序で話が組み立てられている。だから、ゴッフマンは、行為レベルと個人の意識レベルの二つに準拠しているのだが、あくまでも意識レベルはあとに来る。これは『儀礼としての相互行為』冒頭で確認されていることでもあり、相互行為に準拠するようになってからもかわらない。
しかし、こんな調子で間に合うのだろうか?

*1:いま手元にないので確認してないが、第二論文はこれに採録されているはず。

The Goffman Reader (Wiley Blackwell Readers)

The Goffman Reader (Wiley Blackwell Readers)

*2:限定的な社会現象をモデルにより広い社会現象を考えるというのはその後もしばしばゴッフマンが採用するやり方である

*3:類型論は、第一論文からのちのちまで続くことになる。

*4:ただし、第一論文は『アサイラム』のもとになるフィールドワークをする前に書かれている一方、いずれもPsychiatryに掲載されているというのが面白い。