『触発する言葉』

 出た時にすぐに原書で買ったのに、いまごろになって、翻訳で読んでいる。とりあえず、序を読んだんだけど、「もしーなら」とか「だろうか」とかいう修辞的表現が頻出するせいもあって、議論の筋道がいまいち分からない。原書もひっぱりだしてみる必要があるが、とりあえず、
 バトラーが「もしも発語内行為のようにはたらき、発話の瞬間にー発話をつうじてー中傷をおこない、その中傷をつうじて主体が構築されるならば、そのとき憎悪発話は、呼びかけの機能を行使していることになる」(38頁)と述べて、オースティンの発語内行為の概念とアルチュセールの呼びかけ概念を架橋してみせる詳細な議論は、明示されてはいないが、最終的に棄却されている、少なくとも積極的には支持されていない、
 ただし、憎悪発話と呼びかけの結びつきについては否定されていない、「憎悪発話の発言は、わたしたちが従属している連続的で不断のプロセスの一部をなしている。つまりそれは、呼びかけという作用そのものであり、主体が従属させるときの、言説の不断の反復行為である現在進行中の主体化=従属化である」(43頁)。「呼びかけのはたらきはもちろん必要だが、だからといってそれは、機械的なもの、完全に予想可能なものではない。人を中傷する名称の力は、力がふるわれるときの効力とは別物である」(54頁)、と理解してよいのだろうか?
 そう理解しないと彼女自身の一連の議論に整合性がなくなってしまうように思えるし、どうでもよいことだが私が採用したい立場とも相容れない。バトラー自身は、マッキノンたちのように憎悪発言を発語内行為と捉える立場にくみしていないし、そもそもオースティンの議論に立ち返っても、基本的には、中傷や侮辱は発語媒介行為による効果だ。こうした効果からいろいろと立てられる問題設定があって、この概念に面白さを覚えているので、私としては、バトラーがこの部分でそうした一面を指摘しているように受け取りたくなる。
 また、デリダによる発話行為の反復/引用可能性の議論を念頭において憎悪発話の反復による逆転、別の文脈を与える可能性について述べられているが、こうした可能性は発語媒介行為にはあてはまっても、発語内行為にはあてはまらないように論じられている部分がある一方、こうした違いにこだわらず行為遂行性(performativity)について述べている部分もある。どうもこの概念、曖昧な感じがする。

 もしも中傷的な発話の行為遂行性を、発語媒介行為のようなものと考えるなら(発話は効果をもたらすが、効果そのものでないならば)、そのような発話は、一連の不必要な効果を生産したという理由でのみ、中傷的な効果を与えるものとなる。したがってそれとは別の効果がその発現から生じることになれば、そのときこそ、そういった発言を利用し、逆転させ、べつの文脈を与えることが可能となる。他方、もしも法的手段が、憎悪発話を発語内行為とみなす見方をとるかぎり(発話が中傷的な効果を、発話と同時に不可避的に行為するかぎり)、対抗発話によってその種の憎悪発話の力を無害にする可能性を閉めだされる。重要なことは、憎悪発話を行為遂行的な地位につけている法的言説こそ、まさに憎悪発話の行為遂行性が行使されている場所だということである(62頁)。

触発する言葉―言語・権力・行為体

触発する言葉―言語・権力・行為体