『触発する言葉』

 さらに読んでみると、合州国での実例が出てきて、ポルノや差別発言の扱いをめぐって、言ってみれば、それが発語内行為に相当するのか、発語媒介行為に相当するのか、ヘゲモニー争いをしているような状況があり、それを国が判断するという奇妙な状況が生まれてきていることがわかる。
 そうすると、行為遂行性という概念はそこに介入する道具立てとして構想されていて、曖昧さもそこに由来すると思われるのだが、その介入の戦略というのがデリダの反復可能性の議論の延長でなんだかなと思えてくる。バトラーの議論のなかにもそこで実際に起こっているのがどういうことかについての分析があるわけであり、私にはそちらの議論の方が重要に思えた。他方、デリダを援用した発言の効果の逆転の可能性についてはケース・バイ・ケースなわけだから、具体的なことは何も言えないわけで、ちょっと強調されすぎのように思える。
 ただし、バトラーが何よりも問題にしているのは、このヘゲモニー争いの調停者として「憎悪発話を生産している」国家の行為遂行性であり、法の言語そのものが問題発言を引用しては、何が憎悪発話に相当するか等々を線引きしているにもかかわらず、それが不問に付されているということであろう。「事実国家は、公的に容認される発話領域を積極的に作りだしており、語りうる領域と語りえない領域を分ける境界線を引き、そうしてできた境界線を確定し維持する権力を保持している」(121頁)。そこにある種の決定不能性を見いだして「脱構築」を仕掛けようというのは分からない話ではない。

触発する言葉―言語・権力・行為体

触発する言葉―言語・権力・行為体


(追記)この本じゃ、逆転の可能性ということで、ラップが引かれていたけれど、そういう話ならまずザッパのこれじゃないだろうか。

ミーツ・ザ・マザーズ・オブ・プリヴェンション

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