ベケットと「いじめ」

 かなり昔のある少年を自殺させるに至ったいじめ事件の分析が演劇論にもなっているという秀作。なぜか、あまりこの業界で言及されているのをみたことがない。いじめ本シリーズの最後に、再刊されたこの本を再読。問われているのは人間関係のなかで起こってくる「個」の融解現象とでもいうべきものだ。「個人が主役でなく関係が主役になってしまって」いて(77頁)、関係の外に出られなくなり、新たな段階に発展していきようのない悪循環的な状況というものがありうるのだ。
 件の事件を見ると「明らかに或る種の「悪意」は作用しているのだが、その所在が特定できないのであり、特定しようとする意図を、奇妙に拡散させる何かが働いているのである」(45頁)。
 人間が三者以上の関係を取り結ぶことになれば、当然そのなかで複数の対が複数できることになり、このそれぞれの対には第三者に対して一種の「秘密」ができあがり、それが第三者のなかである種の「妄想」として膨らんでいくというようなことがありうる。こうした状況に置かれるとき、個人は自分が置かれた状況に振り回されてしまうことになる。
 「三角関係を体験したことのある方はよくおわかりでしょうけど、他との遠近感が失われて、共有する部分が大きくなり、それが「個」であることを失って、「孤」を圧迫しはじめるのです。これほど、人間を無力感におとしいれるメカニズムはないと思いますよ。「個」であることを主張しようとすればするほど、関係の中の部分に拡散されてしまう。「孤」にさせらられるわけです」(50頁)。
 たとえば、ここから生み出されてくる憎悪は、誰が誰に何をしたという以前に、それぞれが関係に組み込まれてしまったことに由来するものであり、むしろ関係それ自体がつくり出したというべきである。
 「こうなってしまった場合、そこで利害関係者に害を加えるということは、利害関係者に対する憎しみであると同時に自己嫌悪という衝動でもあり得るということになる。自己嫌悪の衝動で利害関係者を刺すということが可能になる。自己嫌悪の衝動で利害関係者を刺すということが可能になる」(51頁)。
 このとき、個人を突き動かしているものはいったい何なのだろうか?
 「近代的個人というものがあって、かつてはそれが、より解放されるべく、より独自であるべく、より完成されるべく、ドラマを主導するであろうと考えられていた。ところが、もうすでに状況が、そういう個人が個人であることを許さなくなってきた。個人が消滅した。個人が消滅しているということは、行為者としての独立性が消滅したということです。もし独立した行為者という者が存在するとすれば、どんなに関係が閉鎖されたとしても、自殺によって自己主張するというような形でそれが逆転することはありえない。しかしその逆転が行われているということは、すでに行為者は独立した本体ではなくなってきているのではないか」(55頁)。
 また、悪意はこうした関係それ自体のなかで産み落とされ、関係の回路を通じて発露される。つまり「悪意が作動する現場には、その悪意を発動させた主体が存在しない」(103頁)。
 「無記名性の悪意というものは本来がそうなのではなくて、私的な、もしくは個的な悪意の戦術のひとつなんですね。人々が関係の中の「孤」にされてしまった場合、こうしなければ悪意を作動させることが出来ないということでもあります」(97頁)。「つまりこの悪意は、特定の個人から特定の個人、もしくは何かに向けられているのではなく、関係そのものに向けられているわけですね」。「しかも無記名性の悪意は一方的に作用する。これは主体がはっきりしないし、何のためにやっているかもはっきりしない。被害を受ける場合は一方的にそれを引き受けるよりしようがない。応答の可能性が全くないのです。つまり引き受け手に反撃あるいは自己弁護の手がかりを与えない」(99頁)。

ベケットと「いじめ」 (白水uブックス)

ベケットと「いじめ」 (白水uブックス)

 ドゥルーズのこの本はどんなことを言ってたっけ?

消尽したもの

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