池上俊一『歴史としての身体』

 さて、これまでいくつか読んできた本からも確認できたと思うのだが、中世の人間にとって身振りや言葉づかいは相手にとって意味を持つというだけでなく、宗教的な意味合いを持っていたというか、「実在する」とされる神や悪魔ともかかわりあっていることになる。「中世の身体コミュニケーションは、外部の人間に向けられるだけでなく、超自然界や、神や悪魔とも関わっていた。それが第二の大きな特徴である。それが超自然界にも向けられ、またそこからの影響を被るのは、身体が魂との間にもつ密接な関係がゆえであった」(58頁)。

 また、ここで問題になっているのは個人の内面ではなく身体であり、コード化された儀礼的な身振りやふるまいなわけだから、われわれなら内面に帰属してしまう問題も、個人の行いとして問題化される。そうすると、前記の「内的体験」が問題になるほど、身振りがおおげさになっていくというのもこの文脈で理解できるのかな。
 
 たとえば、

身体の清潔とは、他人の目に触れるところ、つまり顔と手の清潔であり、自分のためではなく他人のため、他人の視線に向けられた行為・状態であり、一種の社交的行為であった」84.「結局、衣服が身分にふさわしいもので、外観がそれなりに綺麗であればよく、衣服から外に出ている部分、すなわち顔と手は習慣的あるいは儀礼的に毎日何度も洗うが、その他の目に見えない部分、つまり身体の大部分は垢と汗にまみれていても平気であった(84頁)。

社会的現象形態としては、「公開性」ということが中世の涙の特徴であった。部屋の片隅で一人でヨヨと泣くのではない。キリスト教の涙であれ、世俗の涙であれ、世俗の涙であれ、人々の面前でいいぴらに泣くのであり、泣きとその気分を共有し、もしくは、役者よろしく愁嘆場を顕示することが大切であった。とくに、主君の死を家臣・従者が、家臣の死を主君と胞輩が泣く弔いの涙や、傷ついた戦死を女たちがなく惻隠の涙は、一種の社会的義務でさえあった。褒めたたえるにせよ、呪うにせよ、中世の涙は「公開性」」という機能と結びついていたことを銘記しておかねばならない(166頁)。

おそらくヨーロッパ中世の特徴であろうが、恥を感じるのはかならず公の場での辱めにおいてであり、一人きりの者が、いじいじと恥を感じることはない。恥という感情はいつも、それを感じている人物のまわりで展開する行為やまわりを取り囲む人物たちとの関連のもとでのみ表現される。ということは、ある人物が失態を犯したと自分でいくら強烈に意識しても、それが他の人々に目撃され、知られ、公のものとならないかぎり恥として不快感を感じない。自分の失態について臍を噛むような後悔と無念い、恥の真のつらさがあるのではなく、それが公のものとなることでかつての仲間から物理的にも精神的にも離れてしまうことに真のつらさがある。かれは名誉ある家系・貴族・騎士に所属することなしには無に等しいのである(178頁)。

歴史としての身体―ヨーロッパ中世の深層を読む (叢書ラウルス)

歴史としての身体―ヨーロッパ中世の深層を読む (叢書ラウルス)

 多分、これがその文庫版だと思うのだが絶版みたい。
身体の中世 (ちくま学芸文庫)

身体の中世 (ちくま学芸文庫)

 この本はどんな話なんだろう?

儀礼と象徴の中世 (ヨーロッパの中世 8)

儀礼と象徴の中世 (ヨーロッパの中世 8)

  序章 「カノッサの屈辱」は出来レースだったのか
  第1章 支配の道具としての儀礼
  第2章 家族とその転生
  第3章 身振りと感情表現
  第4章 連帯と排除の記号
  第5章 象徴思考の源泉
  結論 儀礼と象徴のヨーロッパ