高島善哉『アダム・スミスの市民体系』

 とりあえず、他にも自宅にあったスミス本ということでこれを読む。「社会の発見」という主題を据えたとき、以下の記述は、この点でスミスがどう位置づくかを考えるうえでとても有益である。また、ミードとの連続性も簡単にではあるが、注で指摘されていた。

 全体社会が上から与えられているような封建社会にあっては、近代の意味における個人がないから近代の意味における社会というものがなく、したがって社会的全体への探求心も起こりえない。ところが市民社会にあっては、全体は諸個人によって造られながら、造られた全体が逆に諸個人を支配するようになってくる。個人の立場からこれをみるならば、市民社会の成立期以来、社会の全体はつねに個人の日常的世界を超える魔力的存在となっている(3頁)。

 われわれはこのことから、どうして封建社会に社会がなく、したがって、どうして封建社会に社会科学というものが起こらなかったか、その根拠をよく理解することができるであろう」。「だから、真に近代的な国家の成立は、市民社会の発見と発達によってはじめて可能となったのである。しかしその前に、この市民社会の発見と発達は、商業資本や産業資本の発達によって、すなわち近代資本主義体制の成立によってはじめて可能となったものであることを見落としてはいけない(4頁)。

高島善哉著作集〈第6巻〉アダム・スミスの市民社会体系

高島善哉著作集〈第6巻〉アダム・スミスの市民社会体系

アダム・スミスの市民社会体系 (1974年)

アダム・スミスの市民社会体系 (1974年)