ちょっと古いけれどアダム・スミスについて『道徳感情論』を中心に論じた本ということなので、気になって読んでみた*1。そのなかで、カントにみられるような積極的な個人的責任が弱体化しているという、スミスの『道徳感情論』に向けられる批判について以下のような確認がなされていくわけだが、このある意味での「深さ」の欠如は、スミスが18世紀の人間だということを視野にいれるとそれもむべなるかなという気がしてくるのだがどうなのだろう?
それから、前々から気になっているのだが、あらためて思うに『道徳感情論』のアダム・スミスとG・H・ミードの議論の類似性を扱った研究ってないのだろうか?しかも、ミードの議論は、たとえばフロイトが描いた自我像と対比して考えてみると、明らかにある種の「深さ」を欠いている。そして、そうした議論が生まれてきた場所が20世紀のアメリカである(ラカンがアメリカの精神分析をどう評したか思い出してみよう)。この辺りを調べるのは今後の課題ということでメモだけしておく。
スミスは、良心がその内面的個人的側面においてどういうものであるかを、けっしてわれわれに語らない。「観察者」は、良心の痛みおよびその明白な支配を示すには、あまりにも単純であり、また、あまりに当人から離れている。そのかわりに、スミスは、如何にして社会的に規定された義務の採用が生じ、そして成長するか、ということをわれわれに示している(130頁)。
- 作者: マクフィー,船橋喜恵,天羽康夫,水田洋
- 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
- 発売日: 1972
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*1:その過程で気づいたことに、こんな本が出ているではないか。まず、これを読むべきだった。 アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書)