アトムの子

 某放送局で手塚治虫の特集をしていて(しばらく続くらしい)、そこでやっている「鉄腕アトム」をついついてみてしまう。久々にアトムを見たら、アトムってとっても哀しい話だなと思ってしまった。だって、なんで人間に奉仕するために作られたロボットが、人間の言いなりになって「生きなければ」ならないのだろう。しかも、アトムはその宿命を自覚的に選び取り「生きよう」とする。そこにあるのは、自由であり、ロボットであることから逃れられないという宿命の甘受、その行き着くところは「死」だ。
 手塚治虫のアニメを見ていていつ頃からか気づいたのは(マンガはあまり読んでいないのです)、描かれていくキャラクターを見ていくと、そこに出てくる人間は人間であって〈人間〉ではない一方、「人間ならざるもの」はより〈人間〉的であるということだ*1。「鉄腕アトム」のなかでもっとも〈人間〉的なのはアトムであり、その都度の出来事にふりまわされるだけの人間はある意味いかにも人間的だが〈人間〉らしくない。なぜなら、自分たちに課せられた状況と対決しようとしないからだ。
 あるいは「リボンの騎士」にあってもそうだ。「リボンの騎士」のなかでサファイアとチンクは互いに互いの分身であると言える。サファイアは男の子の魂を授けられた女の子であり、そんないたずらをしでかした天使チンクも中性的。だから、二人は「人間ならざるもの」である。そして、二人に宿命づけられているのはやはり自由と「死」だ。
 男の魂と女の肉体を受けてしまったサファイアは、王国を守るため女の子である運命から逃れ男の子として生きなければならない。男の魂を授けてしまったチンクは必然の王国を追放されている。その二人が手をとってジュラルミンたちと戦う。その間、王や王妃はおろおろするだけ。しかし、王国に平和がおとずれたそのあかつきに二人は運命に捕捉されてしまうだろう。他方は、女として生き、他方は、天使として必然の王国へ帰っていかなければならない。自由とは運命に捕捉されるまでの束の間の決断でしかないのだ。
 あるいは、『人間ども集まれ!』では、自らの宿命を拒否する無性人間が〈人間〉であって、逆にそこで描かれる人間は〈人間〉ではない。考えてみれば、無性人間を生み出す人間の名が「天下太平」だったのは暗示的である。天下太平に生きる人間は〈人間〉ではないのである。
 というわけで、手塚作品が、ヒューマニズムというありがちな評価とは対極に位置する、アンチ・ヒューマニズムであるとはしばしば指摘されることだが、それは予定調和的で単にハッピーな世界を手塚が拒否しているからであって、他方で「運命への反逆としての自由」というモチーフを見出すのは容易だ。そこにあるのは絶対的な「生」の肯定であり、だから、手塚作品に実存主義的な〈人間〉主義ってのはある。繰り返せば、手塚作品のなかで描かれているあまたの人間は人間であって〈人間〉ではない。なぜなら、彼(女)らは自由を生きる瞬間を手にしてはいないからである。むしろ、運命に逆らいながらも結局は敗北せざるをえない「人間ならざるもの」こそ〈人間〉的なのある。そして、その生は本質的に孤独だ。
 ついでに最近書いているトピックと関連することをちょっと述べておけば、アトムは永遠に子どもであることを宿命づけられており、サファイアは女として成熟することが許されない子どもとして描かれている。

人間ども集まれ!

人間ども集まれ!

*1:翌日も見てしまったのだが、「ブラック・ジャック」もそうなってますな。