「ひきこもり」への社会学的アプローチ(3)


  (1)http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20090201/p2
  (2)http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20090205の続き


 もっとも、他方でこの構造的同型性は、「ひきこもり」が居場所に居着いてしまったり等、支援団体自体もなかなか「回復」のステップをうまく組みたてられないという、「ひきこもり」と同じタイプの問題を抱え込む可能性をもはらんでいるように思われる。
 こうした「居場所」の機能を、医療化の文脈に据えてみるならば、「社会的役割」からも「病人役割」からも距離をおいた状態として描写することができるだろう。荻野(第8章)は、「ひきこもり」のいきなりの医療化へ懸念を示しつつ、「混在的空間」である支援現場が一種の〈緩衝地帯〉として医療へ繋いだり繋がなかったりすることの意義を積極的に評価しようとしている。
 荻野のこの主張に基本的には首肯しつつも、医療化の是非については判断しかねるところがあった。というのも、他に支援する仕組みがなかったことは重々承知のうえで言うのだが、支援団体の活動内容に就職支援までをも含めることが、かえって「ひきこもり」の「回復」の閾を高いものにしてしまっているように思われるからである*1。居場所では自責と免責のはざまでやっていくことができるが、その外に出ようとすれば、基本的に選択の責任は自分が担わなければならない。そこに仕事も含まれてくるということになれば、これがしんどいものであろうことは容易に想像が着く。
 他方、「ひきこもり」にかかわる医師たちは、人格障害のような診断をつけることが「ひきこもり」からの「回復」に寄与しないことを認めながら「医療化」の試みを進めている一方で、長期のひきこもり状態が神経症状態を引き起こす、あるいは引き起こす可能性があることが確認されている。だとすれば、医療化することが「回復」のステップを明確化し、その閾を引き下げる可能性はあるように思う。たしかに、「ひきこもり」によりネガティブなイメージを与えてしまう等の問題はあるが、以前ほど精神科にかかることに否定的なイメージはつきまとわなくなってきているし、社会の現状を鑑みるならば、こうした趨勢を強化していくのは大切なことである。それに「居場所」的なものと精神科医等々専門家が介入する場を二者択一的に捉えなければならない必然性もないはずだ。「居場所」のなかで専門家を活用するようなやり方もあってよいように思われるがどうなのだろうか?
 もっとも、石川良子の別著によれば、医療化による「回復」には問題があるという。斎藤環は「ひきこもり」からの「回復」を「親密な関係を複数持つこと」と設定しているが(42頁)*2、彼女が確認しているのは「人と関わるようになってからのほうが、ある意味きつい」という事態である(109頁)。「ひきこもり」からの「回復」により、当事者はそれまで自分を意味づけていた「ひきこもり」というカテゴリーが適用できなくなる一方で、代わりに自分を意味づける資源がまだ得られていない宙ぶらりんの状態に置かれてしまう。だから、回復の診断が当事者の感覚とは一致しないというのである*3
 これが当事者にとって深刻な問題であることはよく分かる。だが、「親密な関係を複数持つこと」のつらさは、程度の差を度外視するならば、「ひきこもり」だけにかぎった話ではあるまい。長期にわたって職に就けずにいる若者(だけではないだろうが)、意に反していつまでも不安定な就労形態のままで働かざるをえない非正規雇用就労者、オーバードクターの院生、司法浪人等々の立場にある人たちも、多かれ少なかれ、複数の親密な関係のなかでつらさを感じているはずである*4。また、石川が「ひきこもり」からの「回復」にあげる自分を問い続ける試行錯誤とよく似た状態がそこに伴ってもおかしくはない。とするなら、場合によっては特別な配慮が必要になるにしても、この点を「ひきこもり」特有の困難と把握してしまうのはどうなのであろうか?
 こうしたどっちつかずの状態に置かれたことから生じるつらさは、とりわけ昨今の経済状況にあっては、大なり小なり、少なからずの若者が抱え込まざるをえない問題であると思われる。これを「ひきこもり」と関連づけて図式化するならば、「ひきこもり」というモラトリアムの外側に、より包括的で世代的な「モラトリアム」が用意されている格好になろう。この後者のモラトリアム段階を現代の若者がしばしば抱え込まざるをえない問題として把握していく方がむしろ実情にもかなっているし、「ひきこもり」からの「回復」の閾を下げることにつながるのではないだろうか?
 もちろん、それがモラトリアムであるかぎり、次ぎにそれを社会の側がなるべく閾をさげて受け入れようとする段階が必要になる。その中心は、やはり働けるようになるための(就学を含む)機会の提供ということになるであろう。働くということは、消費社会化の過程でその価値を貶められてきている一方で、つまり、働くことから誇りを得ることが難しくなっている一方で、それでも自立するという意味では大きな意味を持つ。しかも、働かないで食っていける人間は社会の少数派でしかない以上、それは社会からの要請でもある。だから、それは、石川が重視する試行錯誤、彼ら彼女らが、自分自身が何ものであるかを確認でき、生きていくための意味づけが得られる資源をも提供できるようなものであることが望ましい。
 とはいえ、本書第9章でも、就労支援の困難や社会的支援の必要が訴えられているように、この点でこの社会の側にどれほどの用意ができているのかといえばかなり心許ない。この本に関連した集まりでも、最後に「「社会」がない」という言い方でこの点が指摘されていた。すでに述べたように、現代社会ではかつて以上に若者の成熟が困難になってきているうえに、ひきこもることはキャリアのうえでさらにハードルを高くしてしまう*5。だから、ひきこもりの問題とは、単にひきこもりの問題というだけではなく、ある意味では青年期の成熟のステップを社会のなかでどう再構築するかという問題をも含み込んでいるのだ*6

「ひきこもり」への社会学的アプローチ―メディア・当事者・支援活動

「ひきこもり」への社会学的アプローチ―メディア・当事者・支援活動

というわけで、一冊読むだけでこれだけのことを書かせてくれるのだから、読みごたえのある本であることは間違いありませんよ。

*1:この点では「ニート」概念の導入の是非も問われてこよう。就職することのいきなりのハードルの高さについては石川良子も別著で強調している

*2:

*3:とはいえ、この「回復」がただちに治療関係の打ち切りを意味するわけではあるまい。また、医師の回復という診断と患者の感覚が一致することは医療においてそれほど自明なことだろうか?

*4:たとえば、ダメ連の言う「平日昼間問題」を想起せよ。

だめ連宣言!

だめ連宣言!

*5:貴戸理恵不登校について語っているような「終わらないひきこもり」を生きるという発想もないわけではなかろうが。http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20071012

*6:もっとも、社会の側の責任を認めると、今度はどこまで社会の側が面倒をみなければならないのかという問題も同時に発生する。そうなると、ひきこもってしまっては遅すぎるから、ひきこもるきっかけとなる有意な因子を見つけて、その手の因子が多めに見つかる子には予防的に早めに手を打とうみたいな話になりかねないところがあって、それってどうなんだろうと思ってしまったりもするのだが。