内海健『スキゾフレニア論考』

 木村敏以降の分裂病論の展開ということではこの本、きわめて明快だと思う。

筆者は分裂病の本質を根本的には時間の病理に由来するある種の背理性であると考える。そしてその発病過程は、主体にとって不可欠の構成契機である企投と被投性の両者の相補性の解離という基本構造から統一的に把握される。この構造は病的企投と病的被投性という二極化した様態を生起させるが、両者は等根源的であり、また相互に増幅しつつ解離を拡大する(48頁)。

通常の状況における企投と被投性の関係について今一度振り返るならば、企投は被投的事実性から出発し、状況を打開するものであり、被投性は企投を新たな状況の中に収束させるものである。企投は状況の力動性、可変性、すなわち状況が開かれてあることを可能ならしめ、被投性は状況の安定性、連続性を保証する(87頁)。
分裂病体験のポテンシャルは、企投と被投性の間に存在する裂隙にその源泉をもつ。まず第一に、この裂隙の存在によって、企投は新たな被投的事実性に収束される見通しを失うことになる。第二に。もしいったん企投したならば、それがうまく行かなくとも引き返すことができるだろうという保証が失われる。---。さらに第三に、病的被投性は企投のための跳躍板として機能を果たしえない。こうして企投は困難なものとなる。だが他方、企投を留保することもまた困難である。なぜなら主体は病的に投げ出されており、事態を収拾することがたえず求められる状況に置かれているからである。それゆえ主体は深淵を前にすくみつつも、飛び越えることが要請されている(89-90頁)。

この解離は分裂病における様々な背理の源泉であり、発病過程は解離の拡大による背理の進行過程と捉える。この過程をあえて段階づけるならば、背理は「状況の背理」から「体験の背理」へと進行し、最終的に緊張病様態に至る。状況の背理とは、状況に即応しない破壊的な病的企投の可能性がつねに存在しつつ、それが企投による打開を見出しえない展開性の消失した病的被投性と共在し、奇妙なコントラストをなす事態を指す。これは「静かなる危急化」と「危急化の中の沈下」という対照的な発病状況を導き出す。こうした状況がさらに進行するならば、背理は体験のレヴェルで出現する。重要なのは時間体験の背理であり、その代表的なものは〈いきなり〉と〈すでに〉という時間性である(48頁)。

スキゾフレニア論考―病理と回復へのまなざし

スキゾフレニア論考―病理と回復へのまなざし

 ちょっと見方を変えれば、「自明性の喪失」ってもともとそういうことなんだろうけど、自分のやってることのコンテクストが見失われていくってことになるんじゃないかな。となれば、身動きがとれなくなるか、放浪するか、あるいは妄想を膨らませるか。そんなところにしか、流れていく先が残らなくなる。