道徳教育の担い手

 もはや旧聞に属するのかもしれないが、日教組が道徳教育に反対しているから、日本が駄目になるとか、「モンスター・ペアレント」がはびこるといった発言が複数の自民党議員から飛び出したわけだけれど、思うに、この人たちと「モンスター・ペアレント」には少なくとも一つだけ共通点がある。それは学校が道徳教育を、つまりは「しつけ」をするべきだという発想。まあ、自民党筋は道徳教育といっても愛国心が主眼にあるのでしょうけど。
 でも、少なくとも、管理教育世代に育った我が身をふり返ると日教組は極めて道徳的な教育を施してくれていたように思う。なにせ「心の乱れは、服装の乱れから」とか称して頭髪検査や服装チェックを散々やられたうえに、ちょっと誰かが問題を起こせば「連帯責任だ」とか言って、正座とか殴るとか様々な教育的な指導を受けていたのだから。これほど道徳的たろうとしていた人たちもあまりいないんじゃないか?
 道徳教育というとすぐに「道徳」という科目が連想されるが、学校でなされる道徳教育は「道徳」という科目にかぎったことではない。この点はきちんと確認しておいた方がよい。高校に至るまで、学級が組織され、集会があって、校内清掃までやらされてと、学校では集団生活のルールを教え込まれる。学校が単なる教育の場にすぎないのであれば、HRはもちろん掃除なんかさせる必要はない。現に大学じゃそんなことはやらない。まあ、イマドキはHRをやって好評の大学もあるようですが。
 しかし、学校のこうした道徳的な性格は、近年になるにつれて次第に希薄になり、またうまく回らなくなっているように思われる。その典型がイジメだ。近年のイジメの特徴はそれが学級・教室の病だというところにある。簡単にまとめると、いじめのなかで傍観者的な立場にある子どもたちが意味が大きく、彼らがとばっちりを食うのを嫌っていじめっ子につくという構造がある*1。このとき傍観者はある種の道徳的判断を行っていることになる。もちろん、その中身は好ましいものではない。いわば、道徳教育の実践の場であるはずの学級が逆機能しているわけだ。
 たしかに、ボクらの時分だってこの手の道徳教育がどこまでうまく回っていたのかは疑わしいところがある。いくら学校で殴られたところで、学校の外ではまったく異なる世界が広がっていることをみれば、教師のやっている生活指導が建前にすぎないことぐらい、中学生あたりになれば十分わかっていた。もっとも、当時は、学歴をどこまで上がっていくにせよ、原則的には真面目な勤労者を育てていればよかったわけで、その意味では管理教育から派生する道徳教育は一定の合理性を持っていた面があることもまた否定できない。
 しかし、その後のさらなる消費社会化や自由化の流れのなかで、個性尊重とかいって(小さい子にどれだけの個性があるのかボクは疑わしく思うが)、子どもがどのような教育を受けるかはかはますます親の選択に左右されるようになる一方、成人後のライフスタイルが多様化していくとなれば、学校で画一的な道徳教育を施すことがますます困難になっていくのは自然な流れだ。しかも、塾等々のせいで学校教育の効力そのものにも疑いが向けられているとなればなおさらだろう。
 そうすると、思うに、問題は学校に道徳教育を押しつけることではなくて、そもそも学校がどこまで道徳教育の機能を担いうるかを再考することではないだろうか?たしかに、集まってきたたくさんの子どもたちを組織しなければならない以上、とりわけ初等教育では、ある程度道徳教育的な要素が学校に求められてくるということはある。とはいえ、すでに記してきたことからもうかがえるように、ボクは学校を道徳教育の主たる場にすることが基本的に極めて難しくなっているというのが実情だと思う*2
 そして、子どもの教育方針をこれまで以上に左右している家庭がその分だけ、またそうでなくとも本来、その責任を担うべきなのだと思うが、一方で少なからずの家庭には道徳教育を任せるのが難しい実情もまたある。おそらく考えなければならないのはそういう話で、学校で道徳教育をやり、愛国心を教え込めばなんとかなるというような話ではないはずだ*3
 
 
 

*1:詳細は、たとえばこれで。

いじめ―教室の病い

いじめ―教室の病い

*2:いわゆる先進国では、どの程度道徳教育を学校に担わせているのだろうか?知人によれば、フランスは既に止めてしまったそうな。欧米圏の映画を見ていると、子どもが問題を起こして親が呼び出されてという場面が結構あるが、あれを見てると、道徳的教育の主体は学校よりはむしろ家庭にあるということがよく示されているように思うのだが。

*3:「道徳」という科目の復活に戦前の「修身」の復活を重ねて憂う向きもあったわけだが、戦前の「修身」がそれなりの有効性を発揮できていたのだとすれば、それは「科目」として有効だったからというよりも、そこで教え込まれる中身が学校生活を越えて日常生活にも広く適用されるような監視態勢が社会にはりめぐらされていたからだと考える方がもっともらしい。