市井三郎『歴史にとって進歩とはなにか』

 このあいだの論点を簡単に確認*1。いまや人間や社会の進歩などを当たり前のように信奉することはできなくなってしまったわけだが、まだそんな進歩史観が力を持った時代に、この本は進歩史観への懐疑を言葉にしていく一つの到達点であったのではないかと思う。市井が始めるのはこのあたりから。

ある社会での科学技術的知識の進歩は、他の社会への災厄(退歩)をもたらす傾きがあったし、倫理的尺度だけから進歩したとみなしうるような社会は、まさにそのゆえに滅びかねなかった、ということである(106頁)。

 そこで、例の話が出てくる。

おのおのの人間は、みずからの責任を問われる必要のないことからさまざまな苦痛−略して、”不条理な苦痛”と呼ぶ−を負わされているが、その種の苦痛は減らさねばならない(196頁)

 そして、さらに次のように言われる。

それを減少させるためには、みずから苦痛を負う覚悟の人間が出現せなばならないという自覚をうながす(143頁)。

必要があると.