なぜか米(今晩はいただきませんでしたが)

 食に関してばかりはグローバリゼーションを手放しで礼賛することはどうみても難しそうな気があらためてしてくる昨今、今頃、秋に某国営放送が放映した米にかかわるドキュメンタリーを見ている。これは身近なところでも聞く話だが、国内での米の消費量はどんどん減っているそうな(私の場合は米がアルコールに置きかわっているわけですが)。そんななか中国やアメリカではコシヒカリのような高級米が栽培され始めている。他方、日本では、国際的な競争力をつけるために農業の大規模化を進めようとして政策を変更している。大規模化しないと補助金がつかないというわけ(やってることが他の領域と似てますね)。
 で、国策にのって大規模化を進めようとして集団営農を進めているところは、共同作業に賃金を払い始めたり、区画変更を試みたりしている。でも、お金を貰うのに違和感があったり、あそこがオレの田んぼだ等々があるからなかなかうまくいかない。この辺りは最近読んだいくつかの本からでも、大変だろうなと推察できます。ところが、農協は米の買い入れ価格を下げると言ってきている。あらら。他方、少なからずの田んぼは山間にあったりして、大規模化に向いていない。そんなところは補助金も削られることになるのだが、とあるおじいちゃんはそれでも米を作るこだわりがあったりして。でも、そこの田んぼの美しいこと。じゃあ、そもそも大規模経営を前提として始めた(といって、国際的にはもっと大規模なところはいくらもある)大潟村はどうかといえば、ここも経営は大変だという話が。
 大規模化すれば国際競争力がつくかと言えば疑問符がつく一方、大規模化すればそれまでの営農スタイルに対して大幅な変更を強いられることになりかねなかったりするわけで(つまり、工業的になる)、そのとき農業を営むことにたいするこれまでのようなこだわりを維持することができるのかといえば、それは難しそうだと思われるわけで、となればそのこと自体が国産だということの意味を失わせそうな気もしたりして。他方、国産農業を優遇するためには、高くても国産の安全な米を食いたいという層を維持しなければならないわけだが、そうしたミドル・クラスの維持も難しかったりするわけで、八方ふさがりだなとか思いつつ見ている。