鶴見和子『漂泊と定住と』

 先だって亡くなった鶴見和子の高名な本を今頃になって読む。読み終わって複雑な気分。あらためて読むと、どうも掛け声的な部分が大きいなと思わざるえをえなかった。件の「漂泊」と「定住」にしてももっと具体的な作動メカニズムが知りたかったし。文革を背景としていたであろう内発的発展論も、いまではまったく違ったコンテクストのもとに包摂されてしまうであろう現在(地方行政と市民の協働なんて話になりますよ)、それがなんだったのかはきちんと見直しておく必要があるんじゃなかろうか?。さしあたりは、一国社会主義から「地域をどう市場と連動させるのか」へと問題設定が移ってきているというようなことになると思うけど。
 そして、ボク自身はといえば何が「内発的」で何が「外発的」なのかがよくわからなくなってしまった。たとえば、柳田に社会変動論を見いだすという発想は「内発的」なものなのだろうけど、それがに下のような山口昌男ばりの図式にまとめられるのだとすれば、「内発的」であるためには他者のまなざしを導入しなければならないということになる。実際にも、純粋な自力更正なんて考えられそうにない。そもそも、「内発的発展論」という発想そのものは内発的なんだろうか外発的なんだろうか?だって、一種の一国社会主義論でしょう?

一方では、定住民としての常民は漂泊民とのであいによって覚醒され、活力を賦与される。また他方では、ひごろは定住している常民が、あるきっかかで、一時的に漂泊することによって、新しい視野がひらけ、活力をとりもどす。常民が社会変動の担い手となるには、みずからが、定住-漂泊-定住のサイクルを通過するか、または、あるいはその上に、漂泊者との衝撃的なであいが必要である(238頁)。