ザ・デクラインIII

 この三部作のオリジナルタイトルは、The Decline of Western Civilizationである。一作目は、米国のパンクと言えば、ニューヨークしかアタマになかった私に、LAのパンクシーンがどんなものかを教えてくれるドキュメンタリーだった。ぐっとアート性は低くなるんだけれど、その後の「パンク」につながって続いくような流れはむしろこっちなのかと思えた。二作目はきわめてバブリーな感じのする80年代のLAメタルシーンの現場のドキュメンタリーでこれも全然知らないエピソードなので面白かった。
 しかし、圧倒的なのはこの90年代末のLAというかハリウッドのパンクシーンをとらえたこの映像だろうと思う。まったく見たいとは思えないけれど、見るに値する映像である。ちなみに、私のなかでパンクとはジャムとクラッシュの解散で終わっている。その影響力はともかく音楽としては一過性のムーヴメントでしかない。ところが、その後もパンクは生き残っていて、ニュー・パンクなどと呼ばれて、その代表格が実はグリーン・デイであると知り、そんな風に受け止め方をしたこともない(でも、言われてみればそうだった。あんまり、真面目に聞いたことがなかったのです)、私にはそもそもパンクというある意味生き残りようがないと思えるジャンルがまだ生きていることに驚くのみならず、しかも、そのファン層が途中からのヒップ・ホップとあわせて、ガキが聞く音楽になっているということにも驚いた。でも、まあ、ガキがイーグルスみたいな音楽聞くわけないよな。それよりはこっちの方がかっこいい。それはともかく、
 そんな90年代末のLAパンク・シーンは、悲惨なのだが、それこそロンドンでパンクが出てくるように、やはりある種の問題設定に対するリアクションを背景に生き残っていったものだということが見えてくる。最初に、まず、バンドは小規模な小屋でしかやれず、決してメジャーになれない。最初に語るバンドのメンバーたちはいずれも音楽的素養があるようだし、社会問題を語る言葉ももっている。一方で、搾取的なマイナーレーベルからメイジャーレーベルに移れば、ファンが離れていくからそれもかなわない。だから、みんな別に仕事もってます。そうすると、バンド活動はどこまで続けられるのでしょうね。そうすると、そもそもバカ売れしているグリーン・デイって何なんでしょう?
 一方、それを追いかけるパンカーたちは80年前後のパンク・エイジの頃に生まれてるかどうかで、そういう意味ではもともとのパンクとは断絶している。そうしたパンカーから聞かされる聞きたくもないような数々の言葉は、差別的なスキンヘッドと対立関係にあるということ、だれもが多かれ少なかれ自己不全感を抱えており、家族関係にも問題がある。いずれも10代の少年少女か、そのなれの果てであること。ドラッグ経験はともかくアルコールなしにはやっていけない。少なからずはホームレスであり、そうでなければスクワッター(をこれを対抗文化的ムーヴメントとして評価するような一部の指摘にこれじゃあついていけなくなるよ。ジョー・ストラマーの時代とはちがう)。路上で物乞いをして日々を過ごし、ライブハウスに通ってる。まあ、独特な格好はしてるし、自分たちの素性から反体制意識を抱いてはいるけれど、ヒッピーというような感じではなく、もっと孤独感を抱えてながらたむろしては刹那的に生きている。
 まあ、メタルやパンク、フリー・ジャズなんかはフラストレーションを追っ払うには格好な音楽ではある。そして、支持層がこれじゃあ、メジャーデビューしたバンドからは離れていくわな。最後の方には、メンバーがスクワッターのパンクバンドも出てくるけど、一方で、仲間の死も撮られている。いったい、この先の彼ら、彼女らを待ち構えているのはなんなのか。カッコだけはきめて、さも自己破滅的な言葉を吐いてみせるけれど、それは現実でもあり、その年端もいかぬ姿はかわいく見える一方、彼ら彼女らの将来を思い浮かべるときなんだかやってられない気持ちになる。そして、2000年代、さらに2010年代を迎えた現在はどうなのか?わたしは、もうこの時点でこうだったのかという思いを拭えない。