関連性理論

 昨日から、スペルベル&ウィルソンの『関連性理論』を読み返しているのだが、あらためて読むとあげられてる事例からではこの議論にほとんど説得力が感じられないのに驚く。あ、掘り下げようとするポイントは面白いですよ。しかし、これでは2章に読み進められない。
 たとえば、メアリーがピーターの振る舞いからウィリアムの存在に気づくまでの関連性を説明するためには、その前にピーターがそれまでのやりとりとは関連性がないけれど、メアリーとピーターの間では関連性のある出来事があるということが分かっていなければ、ピーターの振る舞いに注意を向けないのではないだろうか。でなければ、注意を向けるかどうかはただの偶然にすぎまい。この議論のレベルはグライスの会話の格率の関係の格率を適用するそれまで遡るのレベルの話ではないかな。
 あるいは、囚人が監視人の注意がそれたときに、互いの足並みがそろえることができることがどうかは、お互いが監視人の注意がそれ、なおかつ、互いに脱走する覚悟あるとわかっているときである。しかし、いつでも脱走の覚悟がああるというわけではないし、「囚人のディレンマ」状況が生じかねません②。つまり、関連性理論が想定する事態はすでに、それ自体お互いの間でなんらかの関連性が想定できる事態が成立することを全体にしたうえでの事態の話ではないだろうか。これは、スペルベル&ウィルソンがグライスやそれにのった語用論者に対する批判そのものである。つまり、関連性理論が成り立つときは、それ以前になんらかの関連性が想定されているのではないかという、随分むかしの西阪仰の批判があたっているのではないだろうか、と今頃気づくお馬鹿な私である。
 次章の例。ジェーンがキャビアを好きだという想定のもとに、彼女がキャビアをすすめられて喜んで食べたり、遠慮したりする。それで彼女のキャビアにたいする嗜好の想定が素朴に強化されたり、されなかったりするだろうか?むしろ、彼女が遠慮するなら、そうする動機や理由が探し求められるのではないだろうか。言い換えるなら、この場合の予期は認知的なものではなく規範的なものではないだろうか?好きだというのであれば、ちょっとしたことではジェーンの嗜好は変わらないと考えるのがもっともであろう。それとも、この誤認はその次にジェーンがキャビアを喜んで食べるまで矯正されないのだろうか?スペルベル&ウィルソンの議論ではこの二つが区別できないのではないか?区別できるのだとすれば、もう一段別の関連性が想定されていなければならないのではにだろうか?逆に、疑わしく思われるのであれば、それはそれでそれ相応の理由が求められるのではないだろうか?
 「我々の仮説は、記憶と注意力の通常の限界のもとのある想定集合が提示されると、装置は、その正規の作業手順の一部として、その演繹規則によって定められる非明示的含意集合の全体を直接かつ自動的に算定するということである」(123頁)。で、この想定集合はどのように選ばれるのか?その前にこの演繹過程について検討が加えられ、文脈効果という話が展開される。そうすると、文脈効果を最大にするものがもっとも関連性があるという話になるのだろうと思われるがどうなってたっけ?文脈効果の必要十分条件が関連性を持つということである。さらに、想定を処理するコストが低いとなってた。
 
 

関連性理論―伝達と認知

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最新語用論入門12章

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