舞台は夢!

 私にとって、コルネイユと言えば、名前は知っていてもモリエール以上に具体的な作品は何も知らない、フランスの劇作家である。これはモリエール同様、わたしの無教養を証しだてるようにたたずんでいる古典フランス演劇の世界の一角である。で、その現代版で舞台化。
 見てみれば、ストーリーはたわいがない。ある意味「ロミオとジュリエット」と「ハムレット」を組み合わせたヴァリエーションのようにも見える。18cにしてすでにそうだったのであろうか?
 ストーリーは道ならぬ恋、とはいえ、それは仲違いしてい る一族同士ではなく、貴族と庶民の恋である。結末もそうだけど、時代はシェイクスピアからちょっと変わったのね。そして、この庶民の父親が出奔した息子の行く末を知りたがって、魔術師に息子の現在までに至る境遇を見せてもらうという、劇中劇的な作品である。オリジナルは母親らしいが、なぜ、父親にしたのかしら。
 見ていて面白いのは、ストーリーの展開よりもそれを見せて行く仕掛けの方である。舞台回しである魔術師(フランス人)とその舞台回し(日本人)と父親は、息子の恋愛遍歴の劇中劇を見る立場にありその姿が背景のスクリーンに映し出される。つまり、演じられる舞台とそれを見るものの姿を観客は見ることになる。魔術師のフランス語がよく分からないと思ったら、ここだけは原作に忠実に韻を踏むために、詩だって読んでもよくわからないのに。、いまのわれわれからすれば不自然なまでに倒置していたようだ。
 その舞台は簀の子を引いただけの陣取りゲームのようで至ってシンプル。劇中の人物がさらに劇中劇を見るかのような場面もある。また、この劇中では間抜けな隊長が舞台回し役になっていて笑いが絶えない。
 他方、ときとして、この簀の子舞台以外でたたずむ人物たちが、映画の撮影スタッフのようになって、マイクその他を持ち出して、登場人物を映画のようでクローズ・アップその姿を映し出す。映画ではよくあるやり方だが、背景に舞台で台詞を口にする人物のクローズ・アップが映し出されるのは意外な演出。最後は、フレームをずらして演劇万歳というかたちの結末。
 

嘘つき男・舞台は夢 (岩波文庫)

嘘つき男・舞台は夢 (岩波文庫)