教育の職業的意義

 がなにを意味するのか、筆者は最初に自分の立場を種別化しているが、実はこの概念自体がとても曖昧なものではないかと思う。欧米流にいまの日本のジェネラリスト志向をやめて専門職化をすすめるのであればこれは面倒なことを要求されるので、ジェネラリストを要求するのか専門職を要求するのかで教育に要請されることもまた違ってくるだろう。さて、ここではどちらを考えているのだろうか?ちなみに、同一労働同一賃金を進めるなら前者を推進すべきだが、他方で、どこの企業もコアなジェネラリスト社員を必要とすると思われるので、この流れは専門職化のみならず雇用形態を二つにわけて行くような気がする。いずれにせよ、このとき働き方について新しい格差を受け入れなければならないように思う。それが許容される格差なのかはきちんと論じられるべきだがこの点はっきりしない。
 それはともかく、基本的にはOJTをやめた日本企業の下請け先として高等教育がそれをどのように代替するというのが議論の本筋だといってよいだろう。これまでの日本の高等教育の特殊さは日本の企業の人材育成の特殊性に相関するとみてよい。さて、このとき、筆者は高等教育が下請けをすることを当たり前のように論じているのだが、例えば、OJTを行う一般企業に補助金を交付することもできる。また、キャリア教育を高等教育に委ねるのであれば、一般企業と連繋してあらたな予算措置があってもよいはずだが現状はそうではない。CSRとかいうならまずそこからでしょ。それを高等教育機関こそが唯一の矛盾の引受先であるかのような論じ方にはとても疑問を感じる。
 また、筆者の指摘する《抵抗》なるものにこだわるのであれば、むしろ高等教育機関はどうあっても単なる職業教育機関であってはならず、それを相対化するような視点をも提供できることが必要になるはずだし、それは大学は一回卒業してそれっきりというものではなくなるということでもあるはずだ。一括採用を批判しながら、大学から就職のルートを一直線に考えすぎているのではないだろうか?また、筆者が却けている教養教育にこそ《抵抗》が引かれていたりはしないだろうか?最初にふれたように、高等教育に職業教育を入れ込んでいく結果、どんな雇用格差が生まれ、どんな社会を目指していくことになるかについてはほとんど考察されていないし、この点をおきざりにしたまま、なにかとても請求に結論を急ぎすぎているような気がする。就職状況が少なくとも一部は景気と相関するものであることももっと考慮されてよい。
 

教育の職業的意義―若者、学校、社会をつなぐ (ちくま新書)

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