21世紀の資本

第8章

「20世紀のフランスにおける格差の縮小の減少は、不労所得生活者の減少と高額資本所得の崩壊でほぼ説明できる」(284頁)。でも現在のトップ層の所得構成を見ると、重大な変化が起こったことがわかる。実のところ、今も昔も所得階層が高くなるにつれて労働所得はだんだん目立たなくなり、分配のトップ百分位、トップ千分位と上がるにつれ、資本所得が労働所得を上回るには、社会階層のずっと高いところまで登りつめる必要がある、現在資本所得が労働所得を超えているのは所得分配の上位0.1パーセントに限られる」(286頁)。「私たちは相当程度にわたり、不労所得生活者社会から経営者社会へと移行してきた」(287頁)。「フランスで起きたのは、不労所得生活者が、没落して経営者より下に下がったということだ。経営者が不労所得生活者を追い上げて追い越したのではない」(288頁)。
 「トップ十分位は常に二つのちがう世界を包含している。労働所得が明らかに優勢な「9パーセント」と、資本所得がだんだん重要になる「1パーセント」だ。二つのグループ間は連続的に変化しているし、当然その境界ではかなりの出入りがあるが、それでもこの両者の違いは明確だし体系的だ」(291頁)。「一般に、非常に高額な資本所得を可能にするほどの巨大な富は、労働所得の貯金積み立てだけで手に入るとは考えにくい。どう考えても相続財産が重要な役割を果たしているはずだ」(294頁)。
 所得編纂について考えてみると第一次世界大戦世界恐慌、第二次世界戦など「こうした各種理由により、国民所得のうち「9パーセント」にわたる割合は、1929年から1935年のフランスで大きく増加し、それが「1パーセント」のシェア減少よりも大きかったため、トップ十分位全体のシェアは国民所得の5パーセント以上高まった」(296頁)。「フランスで1945年から1967年にかけて格差がかなり拡大したのは、国民所得における資本所得のシェアと急激な経済成長を背景にした賃金格差がともに増大した結果だ」(299頁)。「低賃金の急上昇により1968年から1983年にかけて賃金総額は生産高より急激に上昇した」(300頁)。その後、緊縮財政に転じて、賃金格差、ならびに所得格差が拡大。
 「米国が際立っているのはまさに、ここ数十年でスーパー経営者というサブグループが出現したからだ」(302頁)。「最も目を引く事実は、20世紀初めから現在にかけての米国は、当初はフランスより平等だったのに、やがて著しく格差が拡大したということだ」(302頁)。とりわけ1920年代。「米国では格差は1950年から1980年の間にもっとも小さくなった」(305頁)。「しかし1980年代以降、米国の所得格差は急上昇した。トップ百分位のシェアは1970年代の国民所得の30ー35パーセントから、2000年代には45−50パーセントにまで増えた」(305頁)。「私の考えでは、米国における格差拡大が金融不安の一因となったのはほぼまちがいない」(308頁)。
 「格差拡大は主に賃金格差が前代未聞の拡大をとげた結果であり、特に賃金階層の頂点、中でも大企業の重役たちがすさまじく高額の報酬を受け取るようになったせいが大きい」(310頁)。

第9章

 労働所得の格差の説明要因として一般に広く受け入れられているのは「教育と技術の競争」であり、これについては二つの仮説がある。一つは、賃金は、労働者の賃金はその人の限界生産力に等しいというもの、もう一つは、賃金は当の社会における技能の需給によって決まるというもの。しかし、これはあまりに単純すぎる。とはいえ、仏米の例(大卒と高卒以下の格差の再生産ないしは拡大)を見ると「長い目で見れば、労働に関する格差を減らす最良の方法は、労働力の平均生産性と経済全般の成長率を上げる方法と同じで、教育への投資であるのはまちがいない」(319頁)。「フランスや米国の経験が示すように、最低賃金が賃金格差の形成と変遷に重要な役割を果たしているのはまちがいない」(322頁)。
 また、限界生産理論では時代ごとの多様な賃金配分を説明できない。労働市場は「具体的なルールや妥協に基づいた社会的構築物なのだ」(320頁)。たとえば、最低賃金の導入。あるいは硬直的な賃金体系。企業の効率性や「特殊的投資」、つまり労働者が企業に固有の技能を習得し、それを発揮するよう動機づける。また、企業が強い交渉力を持ち価格決定権を握っている場合、最低賃金を課すことは、労働者の限界生産性を維持し、賃金上昇が競争をもたらし雇用水準を増加させることができる。ただし、最低賃金をいくらにするかについては限界がある。やはり、教育と技術の総体的進歩が重要。
 それ以上に、限界生産性理論や教育や技術の競争という理論に疑問符をつけるのは1980年だ移行の米国による超高額労働者の急増を説明できないということ。米国の賃金格差の増大は、トップ1パーセント、あるいは0.1パーセントに対する報酬の増加に起因する。こうした賃金上昇が起こっているのはアングロ・サクソン圏であり、これらの国ではスーパー経営者の対等が見られる。1970年代には、トップ百分位が国民所得に占める割合は富裕国のどこも似たようなものだったのに、これらの国ではトップ百分位のシェアが激増している。しかし、大陸や日本はそれほどでもない。とはいえこれが著しい所得格差の増加を意味しないというわけではない。
 トップ千分位になるとさらに増加率が激しい。これはアングロ・サクソン圏だけにかぎった話ではない。フランスと日本。「人口の0.1パーセントが国民所得の2パーセントを占めるということは、このグループの平均的個人が国平均の20倍の高所得を享受しているということなのだ」。それ以上に「重要な事実は、大陸ヨーロッパと日本を含むすべての富裕国で1990年から2010年にかけて、平均的個人の購買力が沈滞していたのにたいして、上位0,1パーセントは購買力を著しい増加を享受したということだ」。「でもマクロ経済の視点からすると、超高所得の激増は、これまでのところ大陸ヨーロッパと日本ではそれほど顕著ではない」(333頁)。
 「さらに留意してほしいのだが、米国は多くの人々が今日考えているのとは逆に、昔からヨーロッパよりも不平等だったわけではないーまったく違う。20世紀初めではヨーロッパでは所得格差はかなり大きかった」(334頁)。これはもっぱら資本集中によるものだが、これはもっぱら旧世界での低い人口率によって説明できる。
 「貧しい発展途上経済国でトップ百分位が国民所得に占めるシェアが、おおむね富裕国と同じということだろう。最も不平等な局面、特に1910年から1950年には、トップ百分位はこれら4ヶ国すべてで国民所得の約20パーセントを占めている」(339頁)。
 というわけで、最初の二つの仮説は説得力に欠ける。「要するに、賃金格差が米国とイギリスで急拡大したのは、1970年代以降米国とイギリスの企業が、極端に気前のいい報酬パッケージを容認するようになったからだ」(345−346頁)。こうした事態をもたらした「保守革命」が米英を席巻したのは、「おそらく他国に追い越されたという感覚がこれらの国にあったからだ」(346頁)。「直観的には決して自明ではないが、全賃金の中でトップ百分位が占めるシェアが国や時期によって異なるというのは重要な事実なのだ(347頁)。
 

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