憲法

 『憲法』の教科書の定番と言われるこの本のアタマの部分を読んでみました。まあ、当たり前のことを確認することになるのだけど、私が学生だった頃の当たり前はいまとなっては必ずしも当たり前ではないので。
 まず、憲法が押しつけられたものだという話が出て来るとき、完全に抜け落ちているのはマッカーサー三原則のなかには、天皇が元首であり、皇位世襲されるというという主旨の項目も含まれていたということだ。そして、これは、極東委員会開始以前に、天皇を統治のために利用できるとふんだGHQが残しておきたかったからだと言われている。つまり、現行の天皇制も憲法が押しつけられなければ、極東委員会の意向に従って廃止されていたかもしれないわけである(旧皇族華族の末路を考えるとどうなっていたのでしょうね)。この点で現行の天皇制も平和憲法も押しつけであることに変わりがない。
 他方で問題になるのは、ポツダム宣言の受諾に伴う憲法改正、ならびに明治憲法日本国憲法との関係である。後者については宮沢俊義のいわゆる「八月十五日革命説」というのが引き合いに出される。そして、その主旨はポツダム宣言で一種の法的革命があったというものである。まず、ポツダム宣言は一種の休戦条約であり、国民主権の採用や基本的人権の確立などが求められていた。ということは、国民が自律的に憲法を制定することを求められていたというねじれた要求が含まれていることになる(他人様に自律しろといわれてるんだから。ま、子どもと同じだね)。
 では、この点を考えるとどうなるか。これが前者になるのだが、憲法改正のための完全な普通選挙で議会が開かれる一方、当事の国民のあいだに日本国憲法の価値体系に近い憲法意識が生まれていたこと、そこではマッカーサー草案の基本線が支持されていたこと、そして施行されて以来憲法の基本原理が定着してきたこと、つまりは、われわれがこの憲法を引き受けようとしていることから、これが国民の自由意思にもとづいて制定された憲法だと言える、と。
 逆に言えば、押しつけであるということを否定する最大の根拠はわれわれ国民の態度である。憲法が押しつけ的性格を含むというのあれば、逆に、われわれがますます現行憲法の価値にコミットしていけばよいのである。

憲法 第五版

憲法 第五版