ヘイトスピーチ

 その昔、ジュディス・バトラーがヘイトスピーチを扱った本を出したとき、私はそのリアリティをいまひとつ捉えそこねていたというか、その流行の文脈のなかでしかとらえていなかったと思う。それがいまや身近な問題としてあらわれるなんて当事は思っても見もしなかった。
 この本は自由とレイシズムの制約のトレード・オフにある関係について、対極的なところに位置するヨーロッパと米国を比較しながら、表現の自由および結社の自由、ないしはヘイトスピーチ、人種差別、ヘイトクライムを扱った書物だ。概要は最初のところを読んでしまえばわかるが、重要なのはどのような変遷をたどってここまでに至っているかということだ。
 そうすると、実は、この二つは必ずしもつねに対立するわけではないということが見えてくる。そういう意味では、昨日あげた本とつきあわせてみてもよいのかもしれない。
 それから、気になったことを二つばかり。この本で「すべり坂」と訳されている原文が何か分からないが、これは従来なら「滑りやすい坂道」と訳されてきたものに相当するのだろうか?
 「仲良くしようぜ」というスローガンは対抗言論としてはよいのかもしれないけれど、どこかで「寛容」ということをふりかえってみてもよいのではないか。「寛容」とは、たとえ相手と仲よくすることはできなくても、相手の存在を否定したり、脅かしたりはしないということ。このとき念頭に浮かぶのは、宗教戦争がもたらず残酷さを回避するために説かれた寛容から、リベラリズムを捉え返そうとするジュディス・シュクラーの試みである。
 

ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか

ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか