朱子学と自由の伝統

 あわせて、たまたま手近にあった(中国のと言いたくなってしまうのだが)朱子学研究の本を読んでみた。タイトルが気になったからなのだが、ここでは程朱にはじまり、陽明学も含めて、黄宗羲にいたるまでを新儒学と読んでいる。そして、そのなかに個人主義自由主義の契機を読み込んで行く。
 たしかに、修身治国平天下と続く精神修養主義に道徳的個人主義を読み取るのは難しいことではないと思う。でも同時に、宗教と区別されるような道徳的なものの存在が自覚されるに到ったとき、そこになんら個人主義的要素を認められない方が不自然ではなかろうか。誰が道徳を身につけ、誰が道徳を実践するのだろう。しかも、著者はそれを自由主義とすら結びつけようとするのだが、ここまでくると自由主義というのは、戸坂潤が『日本イデオロギー論』で批判したそれと変わらなくなってしまうように思う。
 そもそも、西欧政治思想史において、新ストアではなく社会契約論の系譜が重視されるのは、修身治国平天下に典型的に示されるような予定調和(みんなが善人になれば善い社会ができあがる)から切断したところで、国家/社会が考えられているからであろう。そもそもホッブスは人間に自由意志すら認めていない。そういう点ではかなり無理筋の本ではなかろうか。結構、日本の儒学研究も参照されている。あら、古書じゃよい値がついている。

朱子学と自由の伝統 (平凡社選書)

朱子学と自由の伝統 (平凡社選書)

訳者はこんな論文を書いている。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004739236
こんなところに著者が出てくる。
http://homepage2.nifty.com/public-philosophy/yamawaki5.htm