日本中世の村落

 以降は律令制の村の単位の変遷といってよいのかな。まずは、「保」。これなじみがないからいまいちイメージがつかめない。

 「保」は全村的な結合の性質を失って、村民中に特別の結合を加えるかたちで変化していく。「国衙役人が律令体制の崩壊に伴って、国家管理としての機能を減少した時、その私領化した国領から荘園的な保が生まれ、村落民の氏族的祭司がやがて村落内部の分化につれて、氏族制度の本来の姿を失って地縁的団体に化し、更にその仲から異質的な者の擡頭を見たとき、村根本の住人と称する者の特権となり、宮座の保を生む(113頁)。

 次に「郷」

 律令制地方行政組織の一単位として発足した郷は、荘園発達に伴って変質し、その内部構造においては荘園組織と同様のものをとるが、その実体は土豪により把持され、その事によって、荘園のごとく現実の村落より遊離した擬制となる事を免れて、常に現実に存する村落結合の中心として動き、やがて室町時代に至って、全く従来の郷とは別の形で、特別の郷が発達するのである(170)。

 さらに、近世的な国民文化はもととただせば地方生活の核心であり、郷の中に潜在したと。それが、都市に流れ込んでいわば対自的な国民文化にまで高められると。先日見た宮城さんの芝居はこのアイデアを入れて都で小屋掛けする設定にするともっと面白かったのではないだろうか。それはともかく、ここでいう村人は限定された階層であり、「国民文化」として対自化される層はどこまでの広がりを持ったのであろうという疑問が残る一方、石母田にせよこの清水にせよ、これを単純に天皇には結びつけないんだよな。
 「鎌倉時代の村人はかかる氏名を有する名主により代表されていた」(213頁)。武士を始め、僧侶、神官がそれに相当する。たとえば、信仰では

このような村人の生活の面の広狭により奉祀される神が異なる場合があったので、村人の個人的な進行の対象の神はいかにあったにしろ、村という共同生活の対象となった神には、それぞれの生活による限定があった。かくて鎌倉以降、次第に地方化して行った村人の進行は室毎時代守護大名の形成、毛院生的国民国家の成熟とともに、再び、国家的な神を強く求め来るのを見る(243頁)。

 文化では、

室町時代諸種の芸能が地方から上洛して演ぜられたのは、新規を喜ぶ都人士の好みに投じたものであったというより、これら芸能が長く地方の神事と結びついて発達し、これらの演技が単に娯楽として、都人士の生活の中に包摂され、その求めに応じて独立するには至っていなかった事、都市生活が純粋演劇・舞踊を持つほどにはまだ発達していなかった事によるものであろう(264頁)。

 郷村の単位ということでは

元来自然的な条件により結合した村落が、室町の乱世に自己防衛の必要から、この時代によく見る地方節集団の一族・寄合・一揆等と称する結合の形とよく似た性質を帯びるに至ったのである。而して単に近村の聯合にとどまらず、一国をきぼとするものにまで進展する勢いを示すものを生じた(276頁)。

 建武の中興は郷村制の発達に寄与するものであり、「この時から国司守護による地方勢力の統一が始まり、鎌倉という紐帯を失った地頭は、国司・守護の下に改組織され始める」(306頁)。というわけで、石母田も清水も和辻とはいささか違ったかたちではあるが、近世的な国民国家の成立の過程を読み取っていくんだよな。これっていまどういう評価なの?
 

日本中世の村落 (岩波文庫)

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