自己の修復

 人間の攻撃性は欲動の一部をなすと考えられているが、「心理的現象としての人間の破壊性は本質において二次的である、と私は信じている。つまり、破壊性は元来、自己ー対象の環境が、適量の共感反応を求める子供の要求に応じることができなかったために生じるものである」。「とりわけ破壊的な怒りは、自己が傷つくことによってつねにひきおこされる」(91頁)。
 「それは退行産物として、より広い心理構成態の断片として定義され、中核自己を構成しているより広い心理構成態の断片として理解されねばならない。要するに、攻撃性は最初からこのようなより広い心理構成態の一構成要素として機能する」。欲動はこの点にかかわるのであり、自己を支えるものがなくなったときの崩壊産物として生じる。
 こうした攻撃性は非破壊的なものであり、正常な環境のもとではより成熟した形態の主張へと発展していく。しかし、子供時代、自己ー対象を全能的にコントロールしようという時期-相応の欲求が、慢性的に、そして外傷になるほど挫折させられるなら、慢性的な自己愛憤怒があらゆる有害な結果を伴って生じるだろう」(95頁)。
 こうして憤怒と破壊性にともなう、周囲は敵意に満ちているという確信(パラノイド・ポジション)が説明される一方で、「赤ん坊の信頼感は先天的なものであり、---。赤ん坊は信頼感を発展させるのではなく、再確立するのである」(93頁)とあるから、エリクソンと渡りがつくのはこの辺かな。
 で、「自分の憤怒に気づいていない被分析者は、まず憤怒を体験しなければならない」。さらに、「被分析者が自分自身に十分共感的となり、憤怒が生じ罪責感が強化されるようになった発生的脈絡に」気づけるようにすべく徹底操作する必要があると(98頁)。
 で、コフートは二つのタイプの人間を区別する。
1、目標が欲動の活動に向けられている罪責人間
2、目標が自己の充足に向けられている悲劇人間
 ま、自分の思い通りにいかなくて腹が立つというのは多かれ少なかれ誰でもあることだが、そこでぶち切れて攻撃的になる人って何人かお目にかかっているんだよね。そして、こういう人って大抵まともに謝罪できない。となれば、憤怒と罪責感に自覚的になれるよう、共感的にふるまってやれるという話もわからなくはないか。
 

自己の修復

自己の修復